びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

ネット意識の時代

 これは人類最後の意識社会の形態なのかも知れません。
 
 生徒指導の仕事をやっていた最後の頃に、地域協議会などで情報交換すると、毎回「ネットいじめ」の話題となり、では有効な手だてがあるかといえば、"アンケート調査"、"注意喚起"みたいなことでした。
 
 今日、"ネット炎上"や"麻薬的影響力を持つコンテンツ"などは日常的な「見えない風景」となり、散歩していても、"その世界"に耽溺している人々の群れに出会います。
 
 例えば、現実世界での発言ひとつでSNS上では大騒ぎになり、そのことが"マズイ"ことであるかのようにマスコミなどでコメントされるのですが・・・、
 
 
 そうでしょうか?
 
 もともとインターネットは玉石混交の世界といわれてきましたが、今も変わりません。
 
 どのような立場、どのような内容であれ、ネット上での情報が不適切、勘違い、無理解、誤解、誹謗中傷、名誉棄損、差別、人権侵害、嘘、扇動、恫喝、、、なんであれ、
 
 これらはみんなゴミです。
 
 その証拠に、書き込み発信している人物の殆どは自分自身を隠して行動していて、裏返せば自信を持てずにやっていて、相当の臆病者達だといえます。
 
 一方、公人のような立場で、うっかりにせよ確信的にせよ"俺さま"の暴走行為に至っては、何を言われても平気な自己顕示欲と鈍感な人間性がなせる業です。
 
 凡庸と狂気、それぞれ社会の極端にいる人たちが起こしている現象で、殆どの中庸な人々にとっては、何の生活の足しにもならないゴミなのです。
 
 勿論、当の本人達にとっては真剣なことなのでしょうが・・・。
 
 
 勘違いしてはいけないことがあります。
 
 こんな倒錯的な空間が、今後も人類のコミュニケーション空間として発展して行くなんてことはありません。
 
 情報発信、情報収集のツールではあっても、人間的な意味で情報共有の場ではありません。
 
 往々にして、何かの出来事がSNSなどに上がると、それを信じ込む人が多いようですが、テキストや画像を閲覧した人々がみな同じ情報を共有したといえるのでしょうか?
 
 情報共有とは、人と人がお互いが影響しあう行動の中で、共通の目的性と方法を持ち合うことを意味します。
 
 ネット上に"ばらまかれるゴミ"を拾ったからといって、すべての人間が同じ理解に立つわけではありません。
 
 このことが分かっている人は、"そんな空間のトラブル"には巻き込まれません。いじめられません。勿論、人を傷つけることもしません・・・。
 
 しかし、現実社会ではじわじわとその"倒錯空間"に人々が飲み込まれて行ってます。
 
 心配です。ネットに意識を支配されることは恐ろしいことです。
 
 こんなことで「人類の意識空間」が終焉を迎えてしまわなければよいと思います。