びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

横田空域

 前回4/2にアップした「雲の流れ」で、飛行機ぐもの行先が、飛んで行く方向で分かるような書き込みをしましたが・・・
 
 理由があることを忘れていました。
 
 旅客機などを操縦して東京羽田から日本海側の空港(松本、小松、能登、富山など)に向かう場合、「標準計器出発方式SID」では航空路上の指定ポイントを経由しますが、アメリカ空軍に管制権がある横田基地を中心とする広大なエリア、通称〃横田空域〃があって、原則民間機は飛行制限されるので、埼玉県熊谷あたりの上空へ迂回させられ、県北にある私の家の南側上空を東から、西から、、、そして横田空域は高度制限もあるので、急上昇して高度は7000m以上、こういう高度は高空の低温で飛行機雲も出やすいので、、、高度が高いので騒音はありませんが・・・
 
 ぼーっと、雲を眺める、そんな呑気な書き込みだったのですが・・・。
 
 
 実はとんでもない話なわけです。
 
 首都東京の広大な空が他国の空軍によって支配されている・・・
 
 
 沖縄の基地問題・・・・ 東京の人間は鈍感ですが、
 
 一方、東京の人は自分の頭の上にも鈍感です、
 
 
 日米地位協定、日米合同委員会、〃おもいやり予算〃・・・
 
 関連事項がつぎつぎ頭に出てきますが
 
 〃あの戦争〃が終わって、もうすぐ80年
 
 「平和国家」日本はアメリカの軍事力に守られてきたから、文句はいえない
 
 「日本国憲法平和憲法)」もアメリカが護って来たとも言える
 
 他国の侵略をゆるさない、だから海外への侵略戦争もしない
 
 もし、攻められることがあったら、自衛隊アメリカ軍と共同してたたかう・・・!

 だから、、、国民は〃アメリカ軍の迷惑行為〃もガマンするしかない・・・
 
 なので、有権者アメリカと表裏一体を第一とする政治家を選ばなければならない
 
 これを否定できる社会運動も政治勢力も、現在の日本では到底出てこない・・・

 

雲の流れ

 体調を崩して家の中で休養
 
 天気がいいので、窓辺に座って空を眺めています。
 
 西からの風に乗って雲がゆっくりと流れていきます。
 
 脇にスマホを置いて、AccuRadio で音楽を流して聴いてます。
 
 
 次から次に雑用ばかり連続の日々で、一日一日が高速で過ぎてしまい、気が付けば退職してもう8年目になってしまい、年度当初の教員の人事異動発表に目を通しても知る人も殆どいなくなり・・・
 
 自分の世界は一体どこにあるのだろうかと・・・
 

 
 雲の流れを追っていくと、形容の表現もできない空のあり様の中に、一直線に天空を横切る雲が幾本か現れる
 
 飛行機ぐも
 
 飛んでいく方向でだいたい行先が分かります

 
 自然界の不定
 
 その中の人間活動の目的性  そんなことを考えながら
 
 生きていることの意味に、なぜか〃やわらかい感情〃が起きます
 
 その理由が、横で流れ奏でられている音楽だと気づきます
 
 
 光と空気、そして音の交わりに、ヒトは深い感情の芽生えがあるのだと
 
 
 世の中には多種多様な人の生き方があって、それぞれが、それぞれの目的性の中で生きていて、なかなか他人の思いなどに気持ちが行かないものですが、
 
 今、眺めている大空の空気と水の流れ、そこにものすごい速さで進む人間の営み、こんなにスゴイことはないなぁ
 
 太古より、対立的でありながら共存する自然と人間
 
 この空に映る営みは、奏でられる音によって調和します
 
 人間はよくも音楽を発明したなぁ と感心します。
 
 今や居ながらにして音楽を楽しめる
 
 自分の傍らでディオニソスの神が微笑んでいるなんて、
 
 現代人はそれだけでも幸せだと思えます・・・



 

男女別学の怪

 今日の新聞の埼玉版紙面に、県が推進する「男女共同参画社会」の一環として、県立高等学校の男女別学を廃止して、すべて共学化に向けて検討するみたいな記事があり、それに対して県立浦和高校生徒らが反対する主旨の集会を開いたとありました。
 在校生も多くが反対しているとも。
 
 この男女共同参画社会について埼玉県は10年よりも昔から前から取り組んでいて、学校での取り組みとしては、クラス名簿の並びを男子が前、女子は後ろが一般的であったのを、「男女混合名簿」とするなど現場主体で〝小さな改革〝が進みましたが、「現場まかせ」であったため、保守的な男子校、女子高など〃片方の性〃しか存在してないところでは、恐らく何の疑問もなく、問題意識もなく過ごしていたのだと想像できます。

 しかし・・・、

 発言した生徒の意見の中で、
 
 「男女別学に通いたいという多様性を無視している」
 
 という発言があったと記事で紹介されてました。

 
 そもそも男女別学には歴史があって、戦前の「旧制中学校」が戦後学制改革で県立高等学校となる中で、旧制中学は男子対象の学校であったために、これらの新制の高等学校も男子校のまま設立し現在に至ります。同様に、女子の学校であった戦前の「高等女学校」も戦後、県立の女子高校に受け継がれ、この結果男子校は第一中学=浦和高、第二中学=熊谷高、第三中学=川越高、第四中学=春日部高、第五中学=本庄高(現在は共学校)、第六中学=松山高、、、みたいに、県立の男子進学校になって、それと並行して県立の女子進学校も成立しました・・・。
 
 つまり、戦後は公立私立の高等学校が多数誕生しましたが、今問題になっているこれらの「別学高等学校」には、特殊な歴史があって、、、それを伝統とか、何か特別な精神性のような?ものにこだわるのか、、、よく分かりませんが、
 
 先述の浦和高男子生徒の「男子校は多様性の一つ・・・」のような発言は、マズイなぁと思ってしまいます。
 
 学校は性別区別はできない公共的なものなので
 
 見渡せば、現代の企業、役所、その他社会的組織に、男子のみとか、女子のみのようなものは皆無でしょう。
 
 ということで、男子のみとか、女子のみというのは″薄気味悪い″です。
 
 現代の修道院
 
 なので、この生徒の発言はせいぜい「旧制中学以来の伝統的・歴史的な存在価値」の維持も一つの文化である、、、云々 とか、なんとか苦し紛れの文化論的にやらなければ笑われるだけになってしまうでしょう。(ちなみにタレントのカズレーザーさんは熊谷高出身なので、彼の意見など訊いてみたいですね・・・)
 
 そもそも、肝心なこの学校の教職員達は何を考えてるのでしょうか? 男女参画社会の実現については、各現場で小さなアイデアを積み重ねて少しずづ前進させているものと思いますが、男子のみ女子のみでやっていて、それを今後も存続させるのであれば、その納得できる意義を説明できる教育実践を示す必要があって、感情論的な生徒、もしかして保守的なOB達だけの思惑でこの議論が回っているのだとしたら、
 
 まさに、、、〃怪〃としかいいようがありません。

日本人の現場力

 2月に放映されたNHKスペシャル「戦場のジーニャ」は、考えさせられました。
 
 〃現代の地獄〃
 
 まさにその言葉のままです。
 
 
 職場で働いていた昔、生きる糧を得る現場は、常にたたかいだと思っている自分を自覚してました。
 
 自分の考え方や感情、それ以上に正義が優先される厳しい場所。
 
 なので、時には自分を押さえて「演技」を繰り出してでも時間と場所を作らねばならないという意志を持つ。
 
 ただの格好つけであるかどうかは自分には決められない、唯一結果と周囲の反応が答えを出す、・・・ような
 
 ・・・・・
 
 そこが、人が人を殺す戦場だとしたらどうなるのでしょう・・・。
 
 そこに「正義」はあるのか?
 
 
 正義は重要なファクターです。
 
 人が生きる方向を決めるときの、あるいは最も目的的動機かも知れません。
 
 番組を観て考えさせられたことは、
 
 正義が動機になっている日常の中で〃その入り口〃の部分で、戦場の現実からの逃避を超越させる精神力が生み出され、次の行動へと人を向かわせる
 
 
 今の日本の人々には、そのような場面があるのだろうかと・・・。
 
 番組の本質は、その残虐な映像を強いて見せることで、説明ぬきで人間という生き物の不完全さ、とかく正義が無謬性を求めてしまうことの悲しさのリアルそのもの
 
 
 ところで、ここ最近の話題、
 
 不正の追及から、のらりくらり逃げ回る政権政党の政治家連中・・・
 
 巨大災害の切迫を叫びながら、巨大都市の集中の柵(しがらみ)から出られない硬直した経済社会
 
 21世紀もこのまま画一的(産業教育)な教育を子どもに強制する学校
 
 法律に縛られて法律を使えない役人
 
 すべて「現場の責任」の一言で逃げおおせる経営者
 
 そして、これほどに″なめられている″現場の人々・・・
 
 低賃金~逃げる労働力
 
 結果としての現場力の低下・・・
 
 
 日本に住んでいるので、こんな政治情勢を許しているのも、自分が暮らす小さな現場の中でも文句の一つも言えない、それぞれの〃私〃が、すべて原因ですと、思わざるを得ないと、見えてしまいます!
 
 
 話を戻して、ウクライナ戦争をしでかしたプーチンという極悪人、しかし、その極悪人を許したのは多くのロシア人
 
 ヒトラーを許したのも当時のドイツ国
 
 エセ宗教集団をのさばらせた安倍晋三を選択したのも当時の日本人
 
 
 つまり、その招いた結果の大小にかかわらず、ことの原因はすべて私たちが直接生活している現場、、、
 
 現場で自分の言葉でどう生きているのか?
 
 見渡す限り、多くの現場で、普遍的な「希望を感じさせる現場力」が後退しているのでは。そして、そのことによって、国の在り方については投げやりな諦観がはびこり、悪循環的に次々とまずい出来事をゆるしてます。
 

独裁者の野性

 自然界を見渡すと、特に地球上では、進化によって多種多様な生物が、どうやら自然の法則によって存在しています。
 
 絶滅と呼ばれる、特定の種の消滅現象がありますが、絶滅しても化石などで、その過去の存在は確認されてもいます。
 
 そういうふうに、多くの生命現象を「客観的に確認」できる生命体が、人間という呼び名で存在しています。
 
 たとえば、渡り鳥は季節によって生息する場所を変えます。これは自分たちの生命、種を守るための行動で、″防衛本能〃の一部なのでしょう。
 
 人間も同様にその本能で自らを守る〃努力〃をします。
 
 その努力の結晶が科学文明です。
 
 人間以外の動物を観察すると、生命維持行動の一つとしての「縄張り」争いを、強いものが生き残って、その種を存続させてます。
 
 この能力が高いほど、他の種を押しのけて種の繁栄もおきます。
 
 
 ここまでは、至極当たり前の自然界の話なのですが、、、
 
 
 人間も「縄張り」争いをします。
 
 しかも、相当に激しく
 
 人間という種は、人種や民族、そしてその生息環境によって異なる言語・宗教を持ち、食文化もことなり、形態・特性も違います。
 
 重要なのは、それぞれ異なる〃集合体〃が動くとき、必ず、他の集合体との衝突が発生して、他の動物とは比較にならない規模の殺戮を実行します。
 
 
 この集合体については、中国とかロシア、そしてアメリカといった広大な面積と資源を独り占めする大きな集合体と、極めて狭少な環境に耐えて存在する集合とありますが、長い歴史の中で、強いものが弱いものを従える″自然の摂理〃によって、、、
 
 現在があります・・・。
 
 
 今日、2024年の世界を見ると、10億超の国民がいる中国、3億超の国民がいるアメリカ、そして1億4千万超の国民がいるロシア
 
 中国は結局資本主義的な失敗の反動で、毛沢東的ゆり戻しで習近平という原理主義者が、ロシアもかつてのソビエト独裁国家への反動を利用してプーチンという殺人鬼が、そしてアメリカでもその自由主義の行き詰まりの不満を扇動する大道芸人が無責任な大風呂敷を演じてます・・・。
 
 かつて、20世紀の代表的な独裁者は、結局大国に敗れて滅びました。ろくな資源も持たない国家が、大国を相手に生存できるわけありません。
 
 今、21世紀の独裁者は、この地球の自然界の富を独占してします。それはおびただしい核兵器に象徴される、「力の源泉」です。
 
 思えば、日本などは、かつて勘違いして独裁的政権が天皇を神輿にして世界を相手に侵略を実行しました。勝てるわけありません。普通に考えて。
 
 戦後、大国アメリカは、敗戦国日本に不戦の憲法を与えました。これは、奇跡のように80年近く温存されてきました。その間、アメリカが地球上のあちこちで、あちこちの独裁者達と殺し合いを続けてきました。
 
 戦後、自民党アメリカと同盟を結んで、それを国民も納得して、長く政権を独占してきました。
 
 アメリカの大統領が4年おきの選挙でアメリカ国民に選択されて存在することをかんがえれば、アメリカ大統領が独裁者であるとはいえないでしょう。そして、かつての戦争責任に関しては、日本国民に平和憲法を授けたことで罪滅ぼしもしています。
 
 日本は、半世紀以上戦争をしてこなかったことで、それを実証もしてきました。
 
 20世紀から21世紀、人類は自然に対する「客観的責任」を果たそうとしているのでしょうか?
 
 私たちの目の前に存在している大国の独裁者は、「客観的責任」を理解できない、人間ではない「野性」であると特定できます。

持たざる者は幸いなり

 たしか、、、

 これは新約聖書の言葉でしょうか?
 
 その関連で検索すると、でてきます、次々
 
 このことを、日本という国の歴史でちょっと考えると、
 
 この言葉はこの国のことだなと思えます。
 
 聖書的には、″持つ者は悲しい存在〃となります
 
 今世界で起きている無残な出来事のすべての原因であるとも気づきます。
 
 私には宗教的信仰心はありませんが、言葉を科学的に考えると、
 
 「ああ、だから日本は救われたんだと」と納得できます。
 
 幕末~明治維新史観では、徳川を倒して文明開化、そして富国強兵、立憲君主国家を成し遂げた〃薩長の英雄〃第一世代は美化され、その後の間違い→第2次大戦の無残な敗北は昭和以後の新興財閥と軍部第二世代の横暴、無知無能が招いた過ちと、大体そんな感じのまとめ方かと・・・
 
 このまとめ方を分析すると、第一世代は「持たざる日本」を自覚していてその″弱い立場〃をむしろうまく利用して、媚びへつらいながら、「国民国家」の近代的発展を〃手作り感覚〃で進められた→ むしろ日本の立場を世界に知らしめた
 
 一方、第二世代は「持てる日本」への可能性を誤解してしまい← むしろ海外勢力からの〃警戒の圧力〃を高じさせてしまった・・・
 
 その結果としての、無残な結果!
 
 
 アジアの歴史を広い視野でみると、
  
 日本は欧米型資本主義へ〃すりより〃
  

 大国中国は、もともと「持てる国」であったがゆえに初手から欧米との確執を生み、内乱や日中戦争の結果として共産主義革命へ、

  
 実はロシアも「持てる国」であったがために同じような破局に見舞われ共産主義革命(ソビエトの成立)に向かい、
 
 
 しかし結果として、この二つの「持てる共産主義大国」は、欧米との冷戦の末、戦後アメリカ主導の〃国際資本主義〃に敗北し、ソビエトは解体、中国は「改革・開放」を余儀なくされました。
 
 
 この約一世紀、日本は何をやっていたのでしょう。
 
 「持てる国(一等国)」になったつもりで振る舞い、コテンパンにアメリカに殴り倒され、仕方なくそのアメリカに従い、土地を提供し・・・
 
 以後、
 
 しかし、元来「持たざる国」であったことの質素倹約、勤勉努力の結果としてアメリカの庇護のもと、資本主義世界第2位の「経済大国になった」なってしまった
 
 なので、再び、日本は「持てる国」と勘違いしてしまう人たちが増えてきてしまった・・・
 
 そもそも「持てる国」の持っている物は「資源」に他なりません。アメリカを見ても、現在のロシアを見ても、そして「改革開放」の中で「戦後日本の成功」の良いとこ取りで経済大国に躍り出た中国にしても、
 
 その広大な財産の独り占め
 
 だから強い!
 
 日本は、完全に「持たざる国」
 

 日本が真似をしたイギリスは、大昔は世界制覇して全世界に英語をばら撒きましたが、現在は〃あんな感じ〃です。
 
 ひと頃、″イギリス病〃といわれました。
 
 なので、現在の日本も″日本病〃な訳です。
 
 滑稽なことに、20世紀的資本主義経済、これは〃侵略的資本主義病〃なのですが、中国なども、これを警戒した習近平になって、同じ症状の〃中国病〃の疑いが出てきてます。
 
 
 そして・・・
 
 全地球的環境変動が、「持てる国」をじわじわ締め上げ始めてます。
 
 気の狂った指導者たちが、″持てる国の病気〃をさらに重症化させて、政界を混乱の渦に巻き込もうとしています。
 
 今、日本はかつて260年間維持された江戸時代に戻ろうとしてます、これは無自覚かも知れませんが、
 
 「財の余らぬように、不足なきように」
 
 「生きぬように、死なぬように」
 
 
 まさに「持たざる者は幸いである」
 
 私たちは、今、無自覚にその中に平穏を求めはじめています・・・。

法治国家

 〃嫌な″言葉です。
 
 昔、ホリエモンが、たしかテレビ番組の中で見たのですが、「法律ができてしまう前にそれをヤル」みたいなことを言ってました。
 
 この人のように、頭が良くて法律のこともよく分かっている人は、きっと得をするのだと思います。ただ、彼の場合は法令違反で刑務所に入ってしまったので、何となく憎めません。立場は私たちと同じなのだと・・・。
 
 バカげているのは、税金をごまかしてもしらばっくれて、その上、逮捕もされない質の悪い政治屋集団を選んでしまっている国民です。
 
 これぞ法治国家の本質なのだと思います。
 
 「国民が選んでしまったのだから、仕方ない、責任は個人でなく国民にある」
 
 「民主主義に罪はない」
 
 
 たとえば、ロシアのプーチン、中国の習近平とかとか、このような人が支配する国家は、この人たちが法律をつくってしまい、法に従わなければ暗殺されるみたいな、恐怖におののいて国民は何も言えない訳ですが、これは法治国家とはいえず、「エセ法治国家」なのでしょうが、どうも、人間は怖さをともなうリーダーを求めるようで、日本人も他人事ではありません。
 
 日本は法治国家といいながら、国民多数が法に従う一方で、法に従わない人達を政治集団化させているのでは、これもまたエセだといえます・・・。
 
 つまり、実は世界には「法治国家=民主主義」など存在しないのではと思えてしまいます。
 
 そして、このことが、日常の息苦しさ、刹那的余興にしか〃楽しみ〃を感じられない日々の現実だと、、、
 
 「国民国家」という言葉がありますが、言葉に歴史があります。
 
 君主が絶対的権力で市民を支配していた時代が、革命によってその体制が否定されて、国民が権力を掌握して成立される国家=「国民国家」ということになりましたが、
 
 「朕は国家である」というルイ14世の有名なセリフがありましたが、それが「国民は国家である」になった訳です。
 
 こうして市民全員がチームプレーヤーになりましたが、大勢でゲームをやるためには「ルール」が必要なのは誰が考えても明らかで、しかも、全プレーヤーが納得できる誰も逆らえない内容のルールが必要で、
 
 こうしてプレーヤが毎日暮らす家、「国家」のための最高ルール「憲法」が成立しました。
 
 これゆえに、日々の暮らしの変化によって、ルール(法律)の細部に小さな変更やさらに新しいルールが作られたり、、、
 
 この無数のルールは、国民にとって最も重要な生命の安全・心の安心、そして何より「国民が主体であり、絶対的個人支配を否定」→民主主義を守り抜くための絶対ルールである
 
 「憲法」を制定するに至ったわけです。
 
 今、その憲法を、「憲法改正しろ」と言っている質の悪い政治集団が何を考えているのか?
 
 「日本国憲法 第96条」では、憲法を変える最終決定権は、上述してきたとおりそれも国民の権利であるので、国民の判断が必要(国民投票)で、多数決の原理で、国民の半数以上の賛成が必要とあります・・・
 
 ロシアや中国のような「国民国家」に値しないような「独裁国家」を選ぶか、これぞ「法治国家」であると示せるような国家、それを求めるか、求めないか、すべてが一人ひとりの決断に迫られている、、、、
 
 その可能性が残されていることのみ取り上げても、まだ、日本は「法治国家」であるといえるのではと思えます。この言葉が〃好まれる言葉″になることを願います。 
 
※歴史上の悪人のひとりにされているドイツ第三帝国総統ヒトラーも、当時のドイツ国民の選挙によって選ばれました。国民が求めたことの結果であり、その責任は国民にあったといえます。