びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

摂関政治のゆくえ

 令和の時代ですが、かつて平安時代は律令(憲法)を超えて摂関家が権力をほしいままにした時期がありました。
 
 “令外官”政治ですね。
 
 日本国憲法では国民主権のはずですが、その国民の象徴たる天皇の継承については、国民の意思はまったく無視されて“奸賊”のような連中が勝手なことをしているようです・・・、と国民の多くが感じ始めてます。
 
 “征夷大将軍”も本務を離れて政治の立場に完全に組み込まれる様子です。
 その内、また武士の時代になる予感が・・・
  
 
 何が決まるにしても、もう民の思いはせいぜい文学の中にしか書き残されません・・・
 
 6月4日に「芸術が社会を破壊する」と一文をあげましたが、あまり理解されない感じでした・・・。
 
 「庶民の嘆き」
 
 高齢者となった自分自身としては・・・
 
 「歴史は繰り返す」という格言の真意を、自分の人生時間の中で体験できた世代として、、、、満足かも知れません。
 
 あと数年もすると、現在世界中で起きている“不都合な真実”が“不幸のるつぼ”となって、この国にも、生まれ来る新しい命に理不尽な仕打ちがなされる時代が再来するかも知れません・・・。
 
 反逆者は殺されるか、芸術に逃れるしかないでしょう。
 
 数日前、この時代への嘆きとともに美輪明宏さんが91歳で亡くなりました。「愛のみが人を救う」の思いを空気のように漂わせて去って行きました。
 
 「行動」は必ず起きます。他の動物同様に暴力的な防衛本能はありますから。ただし、その本能を中和してしまう体内物質もあって、それは国民の中にあって、「そんな怒りに任せたことをしても・・・」と魂に語りかけるので“激気”は“ため息”にて霧消してしまいます。
 
 と、私たちは教育されてきました・・・。
 
 公教育はその意味で大成功でした。
 
 しかし、教育は“鎮静効果”もありますが、同時に“真実を学ぶ”知恵も育ちます。
 
 実際、700年ほど前、天皇が“二人”になってしまった時代がありました。そして内戦にも発展しました。
 
 ただし、21世紀では内戦にはならないでしょう。国民はより賢くなっていますから、どちらの天皇が正統であるか、、、
 
 “急ごしらえの天皇”か「正統な天皇」か・・・

人生と時代

 “自由時間”が多い生活で、お陰さまで雑用を沢山こなせて幸せだと思っています。
 
 生活がネットとつながって、誰も読まないこんな文章を書いてネットに放り込む、一方であまり読みたくないような“見出し”が目に飛び込んできて・・・
 
 どうしてこうも人々は攻撃しあっているのだろうか?
 
 と、
 
 ため息です(-_-メ)
 
 
 しかし、このブログも14年以上たっていて、フッと昔を読み返してみると・・・。
 
 ああ、自分にも具体的なテーマがあって、その時々の情勢と自分の“生活信条”とのギャップにさまざまな具体的、多角的、比較的な意識がごちゃまぜになっていて、、、
 
 それだけに、何か“強いアイデンティティ”を持った人たちがネット上にはうようよしていて、現実空間では冷めた表情をしている人たちが、一度「ネットワールド」に入り込むとまるで別人になってしまうんだなぁと、、、
 
 少し寂しい気持ちになります。
 
 というのも、自分的にはネットの内も外も区別がなくて、時々「よくもまぁそこまで書き込めるなぁ・・・」と、リアルなその人はどんな生活をしているのだろう?
 
 と、現実に口に出せないことは、ネットにも書けない自分としては驚きなわけです。
 
 標題の「人生と時代」ですが、
 
 過去も未来も、誰しも人生はずっと同じ思考の中にあると思っています。
 
 ただし、歴史になった過去と予想する未来への期待となると、人ぞれぞれの“条件変化”によって、行動欲求の性質が異なるのだと思います。

 そして、“その部分”において、ネットが“誘導路”を作ってくれて、ダラダラ~ゴー!!と電波網を埋め尽くしている状態が広がってしまいました。
 
 怖いのは、その“仮想空間”と現実の区別がつかなくなり過ぎて、現実の意識と行動が仮想空間に支配されてしまって、
 
 現実の人に危害を加える行動に行ってしまう現象があちこちで起きてます!
 
 この危害とは「人を刺す」とか「火をつける」とか「車で暴走する」とかだけでなくて、
 
 政治家達をとりまく空間などでも、「えっ!」と思うような発言を平気でやってしまっていたり・・・
 
 どんな“色”にも染まりたくない私は友達も作りませんが、それはそれで病的かも知れませんが、
 
 トラブルの原因は明らかに時々の「時代性」にあって、人生はその中にあるので、
 
 少なくとも、自分の何れの空間においても、それは生きている間だけのことだと自覚して・・・
 
 「今」を冷静・平穏になれないかと考えてしまいます。

日の丸は固有名詞?

「国旗損壊罪」の「国旗」の部分は一般名詞です。一方「日の丸」は固有名詞です。
 なので「日の丸損壊罪」なのでは。


 以前、同僚で“旗日”には自宅玄関先に日の丸を掲げていた方が、その後学校の日の丸掲揚が義務化された際に、 
「なんか旗を出しづらくなっちゃってね」
とこぼしていたのを思い出します。


 私は、白に赤い“抽象的”な日の丸は好き嫌いは別として、多様な人々の思いや希望を包含していて、そしてその多様さをお互いが認め合う精神の象徴であると理解します。


 故に、旗が損壊されても、“踏みにじられる日の丸”にもその多様性が込められていて、旗自体が人の気持ちや感情をも代弁していると・・・。
 燃やされた日の丸は、悔しさから犯人を咎人にしたいと思うのでしょうか?
 となると、再び日の丸は誰かのためだけの道具と化してしまいます。

女系・男系の壁

 ジジイ達が集まって天皇家の女系、男系の選別をしようとしています。
 
 悲しみの極みです。
 
 天皇制に反対している人々もいるのですが、もしかしたら現在の事態はその原因をつくっているかも知れません。
 
 そもそも天皇は男でなければならないという理屈はどこから出てきているのでしょうか?
 
 法律で決まっているから・・・
 
 でもその法律を変えようとしているのならば、「女性天皇」の一筆を入れるのもできるはず・・・
 
 もしかしたら総理大臣は男でなければならないという暗黙もつい最近まであったのかも?
 
 なので、“高市首相”は失敗できません。

「あ~あ、やっぱりなぁ・・・」

 と愚かな男たちが喜びそうです。
 
 もしかしたら高市氏は男?
 
 そんなばかな!
 
 憲法が保障する基本的人権は男女同権なので、女性が首相をつとめるのは問題になりません!
 
 しかし、であるならば、何故、女性の「天皇陛下」は存在してはいけないのか?
 
 世の中当たり前となっていることが、なぜ天皇家には当てはまらないのか、誰も説明できません。
 
 というか、それを持ち出すと藪蛇になると思っている一部の人間たちがこの国を支配しているからとしか思えません。
 
 なので、仕方ない、、、“天皇陛下自身”が仕方ないと思っている・・・
 
 ガマンしている
 
 だから国民もガマンしている
 
 天皇存在は「国家安定剤」なので。
 
 これは私のたわごとではありません、
 
 戦争がアメリカ勝利で終わった時、マッカーサー司令部が天皇の存在を検討した時に、天皇の歴史が日本人にとってどういう「機能」を果たしているかを分析し、これからの占領政策にとって都合が良いと結論を出した結果です。
 80年近く前の話ですが、「政治思想」としての天皇制の本質は「寛容の精神」に外なりません。諸国巡りをしている天皇一家の寛容さは日本を支配する者たちにとってもなくてはならないものだからです。
 
 と、この話長くなりますのでやめますが、要は「天皇本家女性にも皇位継承権」の扉を開くことが、国民多数が望んでいることと思えます。
 
 これを否定する人は、「天皇は男でなければならない」理由を明確に説明する必要があると思われます・・・。

政治家の語彙力

 地球上の生物の殆どが、何らかの手段によって“仲間との情報交換”をしていると思われます。
 これはあらゆる生物の生存のための手段であるといってよいでしょう・・・
 
 そして人間も多様な情報交換、手段をこの肉体に備えています。
 
 これを「通信能力」と定義してみると、私たちがともに快適に生きていくための様々な条件を共有して、最大公約数的“最適解”を語り合って方向を決められるのも自然界の生物としての法則なのだと思えます。
 
 そして、この法則はその実現の方法論の進化によって次の現象、事実を生み出して“時間の答え”を出して行きます。
  
 昔の百科事典や、今ではWikipediaとかYahooとかgoogle検索とか、何かの目的のための情報検索とこの通信能力を駆使することで、生存のための答えを導き出しています。
 
 ・・・
 
 最近、金目的で人を脅して、無抵抗の被害者を残忍な方法で殺してしまう事件が多発しています。
 
 この手の犯罪に感じることは、「殺すことと金品奪取」が同質(セット)になっているという事実・・・。
 
 これは、最近騒がれている熊による人身被害とほぼ同じで、二つの存在がそれぞれに生命としての意思”を持っていながら、生存欲求を満たすための問答無用の行動の先に生命無視に行き着いています。
 
 考えてみると、人間は家畜を殺して食べてますが、宗教によってはそれを禁じている教えもあります。キリスト教などは、動物も自然界の存在として、人間が食べるために神が定めている(聖書にそんな記述があるか確認してませんが)要するに合理主義です。
 
 問題は、その自然界の頂点にある人間どうしが争った場合はどうなるのか???
 
 双方が快適に生存を目指す精神に到達しているならば、“美しい神の言葉”を駆使して、納得の結論を導き出す・・・・!
 
 残念ながら、今、世界中が騒乱前夜のような雰囲気になる中で、世界も日本もその頂点に立っている指導者たちの語彙には、神もうなる美しさは微塵もなく、言葉を失った指導者達は醜いごまかしの抱擁で行動を粉飾することしかできません、、、。 

“芸術”が社会を破壊する

 現実空間の「無謬性」という確信は崩壊しました。
 
 政治屋を選択する選挙などはその決定的現実で、民主主義の理性も消滅しました。
 
 「言葉の暴力」は表現による人格否定で、それは相対する人間関係の中の出来事だったのですが・・・
 
 今、それは誰なのか分からない“混沌空間”からいきなり発射され、言葉の意味の信憑性の分析を待たずに人々の脳細胞に突き刺さります。
 
 本来不可能だった空間を超えた直接的な人格攻撃が、物事の真実を無視して一方的に破壊的な現実を起こしてしまうエネルギーとして、はかなくもかけがえのないと信じていたものを、簡単に崩壊させてます。
 
 しかし、人権という言葉の意味を考えなかったアジア人にしてみれば、現在起きていることは、失うというよりは、、、
 
 それみたことか、ということなのでは・・・
 
 しかし・・・たとえば
 
 ユダヤ人がアラブ人を痛めつけようとする心理は、“おなじ神”を信仰する歴史の奪い合いとも言え、東洋人のような“自然まかせ”の無責任な意識とことなり、真剣(神権)さ故のプライドが存在していて、こればかりは理解できません。
 
 ところが、21世紀
 
 “その壁”をWWW(World Wide Web)
 が破壊しました。
 
 ・・・
 
 電波が遮断されない条件下では誰もが事の真偽にかかわらず、それぞれの理解力のレベルに従って“事実認定”出来てしまうので、支配者は必然的に「事実を覆いかぶせる」手段を構築して、「芸術のオブラート」で包み込みます。
 
 こうして人々はそれぞれの芸術に逃げ込み「小さな排他」で時の過ぎるのを待ちます・・・
 
 私は芸術を信じません
 
 モノづくりが好きな自分が芸術を信じないという矛盾は存在しません。
 
 自分を信じていないからです。
 
 “信じていない”という無責任さもさることながら、“自他の芸術”に酔ってしまっている人のみっともなさまも溢れかえっているので、
 
 なので、

 飛躍なのか?

 大きな社会崩壊が起こるのでは、

 

 というのは考え過ぎなのでしょうか?

良き教育は良き見本なり

 この1年に日本で生まれた子どもの数は約72万~73万人とされています。
 そして、全国の子どもの人口(15歳未満)は1366万人。
 この数字は、東京都の人口(2024年調査:1412万人)よりも少ない数字です・・・
 
 一方、年収が300万以下の世帯数は、世帯全体の約30%(厚労省調査)らしいので、
 
 全体の3割は“貧困世帯”と仮定して良いのかと。
 
 上記の1年間の出生数の内、この貧困世帯に生まれた子どもが、全体の内のどれ程なのか、各種調査ではその概算が存在してるようですが、ここでは明示しません・・・

 問題は貧困と子育て教育の在り方です・・・。
 
・・・・・・・・・・・・・・・
 
 野鳥観察を家族でしてます。
 
 最近はyoutubeなどでも鳥の巣動画などが上げられていて、カワイイヒナたちの巣立ちと、そこまでの親鳥たちの一所懸命な姿に感心させられます。
 孵化せずに、結局放置されてしまう卵もあり、人間世界と同様、野生の厳しさも突き付けられます!
 
 野生の世界に“貧困”という概念が存在するかどうか、生息する環境状況に数量的格差があれば論じられるかも知れませんが、この1万年、人間が密集、集住するのに対して、野生動物には人間とは異なる移動空間もあるので、比較できないでしょう?
 
 その野生動物の子育てを観察していると、親たちは誰に教わったのか、一日の時間の中で、餌となるものを確保し、巣で待つヒナにひたすら与え、数週間から一月程度のタイミングで巣立ちさせてます。
 

 「野性の本能」で生きているように見られる野生動物ですが、同じ鳥類、同じ系統であっても、沢山の鳥を個別的に観察すると、それぞれ人間と同様に個性が見られ、その個性を見ながら親鳥が育てているのも分かります。
 
 それ故に、人間同様の喜びや悲しみも、そのしぐさに見てとれます・・・たぶん
 
 
 そして人間!
 
 子どもが最初に観察するのは、親としての人間。
 
 生物学的遺伝は当然でも、これから成長する過程での経験知はその見本としての親の生き様!
 
 それは近い将来に社会的巣立ちに連結していく重要な個性の基盤になります。
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 良き教育は良き見本なり
 
 
 表題は19世紀オーストリア出身の著名な作曲家、グスタフ・マーラーも述べたものですが、勤勉で行動的な事業家の父親の生き方を見て育ち、必ずしも円満とは言えないが、母親への感情、大勢の兄弟妹にも情を注ぎ、そして自身の人間性の幅を築き、数多くの名曲を残しました。

 今日、私たちは、格差社会が固定化されようとしている文明が、次なる世代を豊かにできるような行いを、自信をもって若者に語れるような素質を自分の中に持ち得ているのか?
 暴走するネット情報に我を失い、流されるがままに自我に溺れ、育てるべき次世代に見本を示すだけの魂と方法論を、少しは探す努力をしているのだろうか・・・
 
 これは「格差社会が原因」のような安易な説明では解決できません。実際、貧困だけが原因ではなく、それを作り出している悪!
 
 人類も自然も破壊し脅かす狂人が支配してしまう、この世界を生み出したものは何なのか?

 その狂人も人の子であったのに・・・
 

 マーラーの音楽的価値は私などが一言で説明できるようなものではありませんので、みなさんで検索して音源を開いて実際に聴いて頂ければと思います。
 https://www.youtube.com/watch?v=y_nTZtvP0aI&list=RDy_nTZtvP0aI&start_radio=1

交響曲第5番第4楽章