あちこちで書かれているので、どうしようかと思いましたが。
タイトルを変えようかとも思いましたが。
「資本主義に替わるものは・・・」とか。
「代わるもの」でもいいのですが。
実際は20世紀の歴史の中で随分と“代わって”はきたのです。
現代の国家資本主義はもう社会主義という人もいますから・・・、
「橋下氏『停電リスクに怖気』
「野田首相『国民生活を守るため・・・』」
ということになるわけです。
一方、原発止めろと主張する側の“NEXT”は、
「再生可能な自然エネルギー」
では、この二つの側を突き合わせましょう。
「東日本大震災のような巨大な自然災害はまた何時起こるか分からない。明日かも知れない・・・。」
「100%安全といえない原発を稼働させ、福島第一レベルの事故が再び発生したら、それこそこの国はおしまいだ」
おそらく、このことはどちらの側も承知しているでしょう。
「それでも、“動かしたい”というのは、利権だ。人の命を無視する資本主義の限界が見えている」
でも、停電による生命の危険や人々の生活にこれまでの規模の電力は必要であるとも説いています。
この時点で、立場の逆転現象が起きます。
「電力社会を必要としているのは、実は金持ちではなくて、一般の大衆であることは明らかであり、原発を含む電力基盤社会があらゆる産業を肥やし、雇用を創出し、文化を支えている」
これを否定できる人はいないでしょう。
「再生エネルギーへの転換は長期的構想としては追求できる。しかし、今の喫緊の状況下では、当面の原発依存は仕方ない」
これも否定できません。
「いや、否定できる。緊急に全社会的節電態勢をつくり、一律目標のもとで電力を管理統制すれば可能だ」
震災から1年、学校では今年の夏について、昨年ほどの強力な節電要請はきていません。そもそもエアコンの温度制限などは、学校財政逼迫の折り、以前からありましたし・・・。
現在、日本の原発はすべて止まっています。橋下が怖じ気づいたというリスクレポートとは一体どんなものだったのでしょうか。
家庭の電力アンペア契約を下げる家が増えているとか。
火力需要が高まっているとはいいながらも、燃料価格は比較的安定しています。
つまり、今現在、この双方の議論は、議論であって、深刻な生活の痛みとなって国民に迫ってきていないのです。
「原発を止めると犠牲者が出る」
猛暑になると大勢の犠牲者が出ます。
もし“電力不況”が深刻になったら、自殺者は4万人に迫るかも知れない・・・。
こういう“痛み”はいつ出てくるのでしょうか?
福島第一のような大事故は、次は何時、何処で起こるのでしょうか?
かつては当事者でさえ予想だにしなかった、そんな大事故が起きた現実を考えると、今行われている議論に結論は出ません。以前も議論はあったのに、防げなかったのですから。
対立しているように思える議論は、対立なのではなくて、次の大問題発生までの時間消費なのです。休憩時間に将棋を指しているようなもので、本質には殆ど関係のない議論をやっているのです。
原発の安全性をめぐる議論というのは、原発が実際に稼働した昔からありました。関心の度合いは違うにしても、スリーマイルやチェルノブイリのようなことがあっても何も変わらなかったのです。こんな小さな島国の中でさえ、少し離れたところの住民にとっては、もう主たる関心にはなっていません。
実は、原発問題の本質は、原発自体にあるのではなくて、この国に生きる一人ひとりの人間の本質にあることは明らかです・・・。