あまりかかわらないまま定年が近づいてます。
「社会科」という言葉は誰でも知っていて、今でもイメージ的に定着してます。「暗記科目」とか、そんな感じでマイナスイメージもありますね。
でも、公式には社会科という科目は無くなって久しくなります。ご存じのとおり「地理歴史科」と「公民科」に分離されたため、教員免許も別々で、若い先生では「公民の先生」「地歴の先生」が増え、社会科の教員はやがていなくなります。
ふざけた言い方すれば、バイク免許が限定免許になった前と後と同じで、社会科免許の人は実際には乗ったことなくても公民でも地歴でも乗れた訳で、実は私もそうですが教員になってから乗り方を勉強する場合も多かった訳です。
現場では歴史や地理の授業の他、政治経済や倫理を受け持つのも当たり前でした。
教育実習生が来ると、歴史専攻の学生に自分の受け持つ現代社会なども実習させて、これには学生も大変だったと思います。
大胆にいえば、「自己流」の乗り方ができた。
今、大学で両方の免許を取るのはとても大変です。
その分、どちらかの免許だけの人の専門的力量は高くなっているのだと思うのですが・・・。
さて、自己流は悪いことか?
私たちは文部科学省の定める学習指導要領に則り、そして検定を通過した教科書を使うことが半ば義務であるので、そんなに逸脱したことはできません。
というか、自己流でやるとしたら、生徒も納得できるようなものを準備しなければ“騒ぎ”になるので、自己流といっても自己規制が掛かり、すなわち、“スタンダードベース”を踏み外さないようにしながら独自の“アプリ”を開発するようなものです。
実は、このアプリ、つまりは応用の部分こそが職人的仕事の領域なのですが、結局のところそこは歴史も政治経済も垣根は無くて、近現代史などは歴史思想も政治思想もそれほど異なる概念とも思えず、この教科解体を強行した人たちはどういう意図であったのかと、今でもくすぶっている訳です。
なので、教科としての社会科が解体された今も、「社会科研究会」というは存在している訳です。
なので、この研究会には、なにがしかの“メッセージ性”があるようで、その部分について、見る者にとっては「ああ、だから社会科は解体されたのか」と思う人もいれば、何も感じない人もいる訳です。
なにごとにも“訳”があり、そのことの行き着く先に必ず答えがあるのですが、現在の政治の世界でも何も感じない人たちが増えているので、“このこと”は段々消滅の方向に向かっている訳です。
現在、定時制などは小規模なので教科教員は各教科1名ずつなのですが、近い将来“社会科教員が絶滅”した後は、2名配置になるのだと思うのですが、その時はキチッと筋を通して欲しいと思う訳であります。