これも資質の問題なのかも知れません。
高校の管理職とは、一般には校長と教頭と思われています。
現在は、副校長とか教頭も2人体制とか、主幹(管理職候補生のような)が存在しています。
学年主任とか生徒指導主任とかは管理職ではありません。
話を校長と教頭に絞ると、彼らの任期は普通1校2、3年、珍しく5年いる人がたま〜にいます。
ともかく、この年数は短いのか長いのか、その下で働く一般教員から見て判断が分かれます。
私の30年からの現場体験で、3年以内の在任中に、ああ、この人は考え方を持って仕事をしたなぁ、と感じられた方は、最近ではたった一人だけでした。
勿論、他に人間的に立派な方にも何人かは出会い、現場に安心感を与えるという意味で“校長先生”と呼べる存在でもありました。ただし、これは具体的な目的性を持って“ミッション”遂行するというスタイルとは別物といえます。
当然のことながら、短い時間で成果を上げられる人は“有能だ”ということになります。
ということで、成果主義の中でばりばりやってきたような「民間人校長」が導入されたりもしていて、しかし、それは何か異質なものである雰囲気があるわけです。
つまり、それは、3年という時間で“民間のような”成果を上げられる教員出身の管理職はあまりいないという逆説を示唆しています。
学校にも“成果のような”言葉が入り込んでから、「資質」が問われるようになり、一番はじっこの方には「不適格」などという言葉も付けられてしまいました。
並行して「学力向上」、高校では大学進学率、それが競えない学校なら生徒指導件数の減少、のような指標化されたものがレベル設定されましたが、これらは最初から懸念されていたように、教育産業とは異なり、今では学校には“社会福祉”的要素が大きなウェイトを占めるようになっているので、実際はこのような指標はまるで意味のないものであることが感じられはじめていて、折しもいじめ問題などがクローズアップされたことで、霞んできました。
さらに、その“あたかも指標”であるようなことに、どの管理職も同じマニュアルの遂行を命題にし、どの学校も同じようなことをやるので、管理職の資質の差別化もできません。彼らにとっては幸いなことです。
当然のことながら、私の出会った一人という方は、そのような意味での“あたかも資質”を持った人ではなかったということです。そして、その後、さらに出世して行かれました。
今時の多くの管理職は、問題児を抱えたクラス担任のような振る舞いをしてしまうものです。いわゆる“管理的”に。教職員も様々ですから、そうもなるでしょう。きっと現場教員だった頃も、「だめだぞ〜」とやってたのかも知れません。今、管理職達は、上から降りてくる通知・通達を、教職員に遵守させるように一所懸命に啓発活動をしています。
私の出会った一人とは、それとは対照的で、教職員が不都合なことになってしまわないように、常に先手を打てる資質を持っていました。しかも、その先手は教職員の殆どが気付かない内に実行されています。
さて、それを実行可能にする資質、方法論とはいかなるものでしょうか?
・・・
私には到底真似できません。しかし、幸いその実行されて行くプロセスをつぶさに見させてもらえました。
つまり、そのような資質を持ち合わせている管理職であれば、3年間あれば、何らかの形を残せるのだなぁと感じられた訳です。
・・・一人、・・・
であるから、多くの管理職の方々に求める唯一のことは、教職員を、そしてそれは児童・生徒のためにもといえますが、学校を安心して仕事のできる場所にすることがすべてて、現場への外からの理不尽な要求に対しては、時として自分のところで止めるような存在であって欲しいと思うのであります。