びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

いじめの話


 生徒から聞いた話です。
 
 少し切り出しにくそうにしながら・・・、
 

「先生、オレ、小学校の時はいじめられてたんですよ」 

 適当な会話をしていた時に、たまたま、「いじめ対策」のアンケートなどが矢継ぎ早に現場におろされてきているという話題からこぼれた話でした。


「それで、どうなった?」


「なんか、何だったか、近所の空手教室みたいなチラシがあって、お金かかるけど、かあちゃんがそれくらいなら出せるよって、いうんで、試しに行ったら、、、これがハマッちゃったんですよ」

「何、それで、いじめる奴をボコボコにしちゃったってこと?」

「まぁ、そうなんだけど」

「そうなんだけどじゃないだろー、、、」

「いや」

「6年生の時に、ついに耐えられなくなって、いじめてた奴らグループの全員を殴っちゃいました」

「えーっ、ちくられたろ」

「ぜんぜん」


 
 今の彼を見る限りでは、いじめられるようなタイプとは思えないながら、ふと自分の子育てを思い返していました。
 

私は“ある意味”体罰肯定論者かも知れないので、そういう痛快な話は好きです。


 しかし、今の彼の日常を見る限り、活発で大きな声で生活しながらも、礼儀正しく、人には優しく、そして、、、彼らの同世代の“所業”に対する理性的な批判力にも感心させられています。
 
 
「まぁ、でも、やられたら、やり返すってことじゃないよな〜」


「そりゃそうですよ、そこまでいっちゃうのは、やっぱりかなり追い詰められた気持ちだから・・・」

「でも、結局、“いじめられ”って、自分で乗り越えるしかないですよ。俺はそう思いますね」


「空手ってのも、体の強さもあるけど、精神力も強くなるからな」


「そう、それ感じますっ。自信つきましたね」


「いじめてる奴らは実は弱いやつらだって分かりましたね」


「“それ”からは、へこへこしてたから」


「なるほどねぇ、そういうことに出会えたことはラッキーだったなぁ」


「まったくですよ。でなかったら、俺、死んでたかもしれませんよ、マジで、」


 その一言で、この話がいい加減な気持ちの話でないことが分かりました。
 
 
 私のその年頃は、たまたま親と別居していて、自由きままな生活の中で、中学生のくせに一人で山に行ったりして、日常生活とは異なる自分の“精神空間”がありました。
 
 
 結構、学校は荒れていて、生徒どうしの暴力や教師の体罰などなど、今では考えられないほどサバイバルだったかも知れません。上の学年の不良に殴られて目から出血したり、教師に叩かれてミミズ腫れになったり、、、しかし、自分がそんなに悪いことをしたつもりもなく、それでも惨めな気持ちよりも、自分が持ち得る“精神空間”が、恐れない気持ちをより大きくする実感があったものでした。
 
 

 さて、この時間は、しばし愉快な話が続きました。
 
 
 そして、
 
 
 「自分で乗り越えるしかない」
 
 
 という言葉が、この問題のキーワードなのだと思いました。
 
 
 とにかく護ってやるとか、避難させるとか、加害者を懲罰するとか、それが解決になるのか?
 
 
 延々と続く実態調査、アンケート・・・。そして、時間とともに悲惨ないじめが増えていく現実・・・。
 
 
「いじめを許さない」というフレーズがありますが、これは問題解決の正しい観点ではありません。


 いじめは社会構造の“ひずみ”と感じている人は結構いると思います。そのひずみのエネルギーは、どんな時代にもあって、何らかのきっかけで悪い現象を引き起こします。
 
 
 誤解を恐れず書けば、地震や大津波はエネルギーの暴走であり、それは止めようがありません。そして多くの人命が奪われます。強引ですが、いじめの社会構造も自然エネルギーと同じで、あるきっかけでこの社会を襲います。それは避けられません。
 
 でも、人は立ち上がります。そこには運不運もあります。立ち上がる勇気を持てる出会いや体験を得られた人は幸いです。ただ、幸運を得られた人に共通することがあります。それは、とにかく自分で行動を起こしたことです。動くことで、変化を得て、経験が自分を強くします。絶望状況でさえ、ため息まじりの「とにかく生きるか」という一歩が淡々とした強さを積み重ねていきます。
 
 
 分かりやすくいえば、いじめ問題は物理的法則です。

 
 動いている物体はなかなか的になりません。目立つところで静止している物体は簡単に的になります。
 
 
 的にならない一番簡単な方法は隠してしまうこと=ひきこもり

 
 的にならない“ちょっと大変”な方法は静止しないこと=活発に動き回る
 
 
 活発に動かすためには、簡単に隠れてしまえる場所を作らないこと・・・。
 
 
 
 ただし、すべての物体が活発に激しく動き回ると、必ず“衝突”が起きます。ケガをすることもあるでしょう。それは、それで問題ではあります。
 
 
 それを恐れるあまりに“安全装置”を張り巡らせ、自由闊達な議論さえも封殺するような社会をつくってしまったことで、その本来の生命的欲求が陰湿な行動形態に変質しているのです。
 
 
 “ある意味”体罰肯定論とは、その本来の“衝突”のことであります。物体が動き出せば、それぞれ価値観、主張の違いで必ずぶつかり合います。しかし、そのような活発な空気で充満された環境では、じっと的を狙っているような存在は、存在し得なくなります。
 
 
 答えが出ました。
 
 
 もっと、大人も子どもも、のびのびとした環境の構築が必要です。
 
 
「衝突を恐れない元気な世界をつくるにはどうしたら良いか」
 
 
 その答えに行き着いた時が答えなのではなくて、その衝突を求めようという行動を起こすこと自体が、問題解決の一歩であると思えるのです。