びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

教育委員の危機意識


 問題が認識されていることは分かります・・・。
 
 
 県教育委員会で、次期「教育振興基本計画」についての話し合いの席上、各委員が、教員の資質能力の向上に意見が集中した・・・、と新聞報道されています。
 
 
 これまで、教員の資質向上の議論には、たいてい「指導力」という冠がついていました。
 
 
 が、おやっとしました。
 
 
 委員の発言について、報道のまま転記すると。
 
 
「現場で教員としての喜びを見いだしにくくなっているのではないか。教員という職業が、子どもたちの将来の夢として人気ナンバーワンになるようにしなければ」


「子どもは授業が面白く、分かると楽しくなる。教員がいろんな教材を用意したり、工夫をして授業をするために、ある程度の余裕が欲しい」


 管理職希望者の減少や、精神疾患による休職者の増加について、
「メンタル面を含めた健康管理対策をしっかりするべき」


「先生がやる気になり、自ら変われる学校や教委のサポートが必要」


 ・・・・・・
 
 
 「指導力不足」という、“人事査定の指標”が、実は狭い意味での教員の仕事の能力というより、「この人は一般的社会人としてやっていけるのかどうか」と同じ意味になった今では、「純粋な教員の指導力」などというものは存在しないということがハッキリしています。
 

 このことは、教員を、教員として育てることは出来ないということを意味しています。
 
 
 昔から、特に高校教員などは大学の殆どの学部で教員免許が比較的容易に取れて、各都道府県の教員採用試験を突破して現場に配属されてきました。
 
 
 私の見てきた30年の昔は、出身の違う、興味関心の異なる、そして価値観も様々な教員集団が、現場で自由闊達に議論しあいながら作り上げる教育現場でありました。
 
 
 “体罰という側面”も、その個性の一つであったということです。個性が多様であることが、ある面では適応出来なくても、別の面なら適応できる柔軟な“人間システム”がそこにはありました。
 
 
 学校にはポケットがたくさんあった・・・。
 
 
 この多様な“システムの理念”が禁じられてしまった今、画一的となった装置の中で不適応が起こると、もう逃げ場は無くなり、それが深刻な症状を発症させるようになりました。
 
 
 現在の学校現場の問題が起こる根本理由です。
 
 
 問題に対して現在取られている対症療法といえば、
 
 
 体罰、いじめ=暴力・傷害→行政処分刑事罰
 
 
 自殺=人命軽視→自殺防止啓発研修
 
 
 不登校学習障害=学校不適応→カウンセリング、精神疾患治療、教員研修
 
 
 起こる現象に対して、直接教室現場に関わりのない人々が理屈ばかりの専門性で口出しをして、私たち教員に対して研修会、研究協議会、連絡会等々への出席、その場への資料提供、そして報告を求め・・・。

 上記の一人の委員の発言、
「先生がやる気になり、自ら変われる学校や教委のサポートが必要」
 とは、このような今の実態のままであるわけです。
 
 

・・・社会は学校をほっとけなくなった・・・


 要するに、そういうことである訳です。いまや教員という職業が夢の職業であるわけがありません。
 
 
 教頭先生に机上を監視され、生徒にも品定めされ、地域社会からも包囲され、「夏休み」などは遠い昔の話となり、一般公務員と同様にいきなり給与を引き下げられ、組合活動は消滅し、土日返上で情熱的に指導をし過ぎれば逆に自分を萎縮させる事態をまねき、定年を向かえ、年金支給開始までの年月、それまでの半分にも満たない給与での、再任用教員をするに以外にもはやスキルもなく・・・。
 
 
 そして、
 
 
 勿論、高齢化した教職員集団の大量退職で、学校教育界が一度“ALLリセット”される時期に来ており、ぐだぐだ昔の価値観でもって現状を嘆いている教員には何の立場もなく、




 だから、・・・
 
 
 むしろ、現場を去っていく教員達には、意味不明な“かみしも”を脱ぎ捨てて、一市民として、学校が失ってしまった自由闊達さを、社会の中に現出させられるような生き方を追求する、
 
 
 と、自由の喜びと、その生き様に若者達が夢を持てるような、面白く、楽しい社会現象を提供していかなくてならないと、
 
 
 たぶん、尊敬される人格が求められるのは教員だけではないだろうと、
 
 
 少し、力みながら、
 
 
 思うのです。