どんどんヒドイ言葉がつくられます・・・。
教員が間違った指導を行ったことで子どもが自殺してしまうという意味だそうです。
政治が旧体制に戻ると、さらに管理的な学校が増えるなどという議論も耳に入ってきます。
これにも、昔の方が学力が高く、人間的礼儀も出来ていたという観点が接続されています。
“ゆとり”や“やさしさ”が主唱された時代が遠く去り、管理的学校社会が、教員の管理と生徒の管理を一つの空間に包含しています。
“指導死”という言葉に学校現場も行政も黙り、次なる状況に身構えるばかりです。
不幸な出来事が一つ、また一つ起こるたびに学校と社会が対立的関係になって行く・・・、実に残念なことです。
学校だけでなく、保育園や学童など、子どもをあずかる現場は沢山あって、そこは命をあずかる場所な訳ですが、私たちは、同時にその命を強くしなければならない。そういう任務があると考えてきました。
間違っていたのでしょうか・・・?
尾木ママが、「学校は安全・安心なところでなければ・・・」のようなことを語っていますが、それは誰も否定しませんし、さらに学校だけでなく社会全体だってそうあるべきです。
学校が危険な場所になっていると論点にするつもりならば、その子ども達がやがて出ていかなければならない、“ブラック企業社会”のことも論点にしなさい。
“指導死”とは“過労死”とほぼ同義語かもしれません。
一つの価値観しか存在しない世界の話です。
公教育が次代の労働力を育成する場所であることは間違いありません。学校でやられていることは、労働市場からの要求です。
思考力よりいまだに記憶力を重視している教育内容は、勤労者に思考力を求めていないからです。
「形から入って、形から出なさい」
過去と未来をつなぐ、教育の本来の意味
なのに、現実は、形に入れる教育と形から解放させようという教育が対立してしまって、結局どちらも実を結ばない結果を招き、同時に様々な問題を引き起こしています。
いわれたとおりの形さえ身に付ければ、後はなんでも自分の自由だと思う人間。形に適合しなくても、抜けた個性があればわがままがゆるされると思う人間。どちらも利己的精神を育む教育。
その対立が故に、このどちらも獲得できない人間、どちらも実現させなければともがく人間、そういう個人が苦しむ社会。そして、そういう個人に襲いかかる“薬漬け社会”・・・。
夢や希望が遠のきます・・・。
形に入ることも、形から出ることも、水が流れるように、時にゆるやかに、時に激しく、自然界の多様性にも比する、多様な人材によって構成される学校の形を否定したことで、いよいよ硬直化させてしまった公教育の崩壊がはじまらなければよいが、と思うのです。