びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

夏休みの出勤


 「学校教員の夏休み」というイメージがありました。昔。
 
 
 30年以上教員をやってきて、そう、大体10年少し前くらいまでは、あったと思います。
 
 
 世間の方々からも「先生は夏休みが長くていいですねぇ」と。
 
 
 という、あの夏休み・・・。とても懐かしい・・・。
 
 
 毎年、6月頃は、その季節が近づいてきて、さぁ、今年は何をしようかと楽しみでもありました。教員ならではの感覚だったのかも。
 
 
 一応触れると、「教育公務員特例法」という法律があって、その第22条の2項に、
 
「教員は、授業に支障のない限り、本属長の承認を受けて、勤務場所を離れて研修を行うことができる。」


 とあり、教育的資質の向上のために自ら研修をする必要が定められています。
 
 
 夏休みを自分の考え方で過ごせる根拠はここにあります。実は、この条文は今も変わっていません。
 
 
 では、何が変わったのでしょうか?
 
 
 簡単に言えば、法律の運用が“厳格化”されたということです。
 
 
 校長がその教員の研修内容を承認すれば、世間から見て「先生の夏休み」は存在している訳です。「夏休み中の研修」という言い換えで。
 
 
 問題はその厳格化です。かつては、夏休み期間中をとおして“包括的”に承認され、教員は“自由な研修活動”が出来たわけです。


 つまり、現在は、この自由度がなくなったということ・・・。
 
 
 と、この話を聴いて世間の人は、「なぁ〜んだ、じゃあ先生の夏休みはまだ存在しているんだ」と思うかも知れませんし、「時代だね、勉強しない先生は“先生の夏休み”もらえないんだ」ともなります。
 
 
 この解釈は、どちらも正しいということになります。
 
 
 ところが、実際上学校現場では、いろいろ問題もあります。夏休みの過ごし方にある種の「格差」があるといえます。
 
 
 私の場合は、社会科の教員なので、授業の1コマに役立つようなテーマを決めて、資料収集等を目的に出掛けるために「承認願」を出します。内容によって1日であったり、2、3日であったり。基本的に校長承認が下りますので、実施後は概要を記した「報告書」を提出します。この報告書作成は結構時間がかかるので、学校に出勤して作成します。
 
 
 こうして、そのような研修を幾つかこなして“私の夏休み”は終わります。
 
 
 つまり、昔はこのような手続きはなかったということなのです。報告書作成などというものも実質なかったので、そこで、いろいろと“言われはじめる時代”になったということです。
 
 
 これから教員人生を送る若い人たちは、現在の「承認研修制度」に不満はないでしょう。当たり前といえば当たり前なのですから。
 
 
 昔を知る世代だけは不満があるわけです。でも、不満は不満で、ただ感情の問題でもあるでしょうし、その世代はもうじきにリタイアします。
 
 
 ただ、あと数年で教員生活を終える立場でいえば、少し気になることがあります。
 
 
 実際上、この「承認研修」をとる人が少ないのではということです。
 
 
 じゃあ、学校の夏休みはどうなっているのでしょうか?
 
 
 普通の公務員と同じで任意に3〜5日程度の夏休みはあります。お盆前後が多いのでしょうか。
 
 
 一方、部活動のチーフ顧問などは土日返上で指導の毎日。夏休みどころではありません。これは正規業務とはみなされていません。半分ボランティアです。でも生徒の面倒をみてくれているので誰も文句はいえません。教育委員会も。
 
 
 進学校はずーっと補習でしょうね。教室にエアコンが入った学校も多いです。電気代は保護者負担です。
 
 
 就職希望の多い学校では、進路や3年クラス担任などは、会社見学の手配などで仕事が集中します。落ち着くのは、見学結果をまとめるお盆明けの頃でしょうか。
 
 
 小学校などはプール開設の当番などありますね。
 
 
 でも猛暑の季節、学校などに出る意味がある教員はいいんです。部活に人生かけて取り組んでいる先生などにとっては生徒を鍛えるいい季節です。
 
 
 さて、部活がそれほど活発でなく、進学補習もあまり必要なく、つまり夏休みに生徒の声があまり聞こえないような学校の教員はどうしましょうか?
 
 
 話の流れからすれば、
「承認研修」とって、勉強しに行けばいいじゃないか?と聞こえます。


 実は今、問題になっているのは、この「承認研修の定義」なのです。
 
 
 何をもって研修と認めるか?
 
 
 実は社会科を含め、具体的事象を沢山扱うタイプの教科・科目は研修できることが沢山あります。実際、承認研修になる以前の自由な時にもそれ目的で時間を使っていましたし、撮りためた写真などは今でも貴重な資料になってます。
  
  
 しかし、何かを収集するということのない教科とか、研究する内容が抽象的な事柄などの場合は、どういう形で企画するかということです。
 
 
 私がこのことをここに記すのも、実は現場校長や役所の人達が、そのようなことで困っているからです。
 
 
 例えば、まとまった時間で集中的に難しい数学書を研究するとか。予定されている進学補習に向けて、新しい学参書を大きな書店に探しに行くとか。音楽の先生が自分の音楽的感性を試すために希に来日するアーティストのコンサートに行くとか・・・。
 
  
 一つ一つの承認案件に動揺してしまって、基本的に一律不承認してしまうような校長もいると聞いています。こういう人は失格だと私は思いますが・・・。
 
 
 実に不幸なことだと思います。
 
 
 仕方なく、生徒の姿のない猛暑の職員室に出勤して、エアコンの冷風の下でほぼ一日中パソコンでネットやっていたり、管理職も含め雑談で過ごしていたり、ずーっと読書していたり・・・。
 
 
 一体、この学校の夏休みの、実に楽しくない現実は、日本の将来に有益なのでしょうか?
 
 
 先日、承認研修で三陸、岩手・宮城の被災地を訪れました。現場に行かなければ分からない、いろいろなことを学べる3日間でした。社会科としての承認研修です。しかし、同時に思いました、ここで見て、感じたことは、特定教科だけに関係あるということではないのではと。若い世代の教育に携わる者達が、誰もがこの日本で起きていること、さらには、被災地ばかりでなく、日本の随所、そして海外であれ、そこが山でも海でも街でもある店の中であっても、貴重な時間を費やして、教員自ら実費負担でまかなう行動について、よほど許し難い内容でないかぎりは、積極的に承認し、実りある結果を期待すべきではないのでしょうか。
 
 
「教育行政」という言葉があります。


 この言葉の響きは、どこかの役所の中で、机の前に座って、PC端末に向かって何やら資料作成している行政スタッフのイメージが浮かびます。みなさん、朝から晩まで仕事をしています。ご苦労様です。
 
 
 一方、学校現場の教員に、その姿が似合うでしょうか。
 
 
私の「現場」という言葉のイメージは、体が動いている姿です。夏休み、授業がなく、他に特別な用もない教員はどうしたら良いのか。何が最良なのか。教科書とノートだけの教材研究に、どのような質的価値を付加して行けばよいのか。自分が生徒だった時代、どんな話をしてくれる先生が楽しかったのか。


 そして、とても気になること、それは若い世代との会話の中の、話題性の欠如です。特定の場所でしか動かなくなった、新世代の空間的教養の欠如を感じます。広い視野を自ら持てない若い教員が増えることを危惧します。
 
 
 これから先は、強制してでも、承認研修を企画させて、個々の主体性や独創性で行動させ、その成果を自らの実践の糧とさせ、生徒が憧れるような人材を現場で育成して行かなければなりません。
 
 
 あと、数回しか夏休みのない、何か、時間の貴重さをひしひしと感じはじめているこの頃です・・・。