びーすけ工房でひとやすみ

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8月15日


 日本の歴史上の“年号”の中で、特別な日だと思います。
 
 
 これは世界史的な年号でもある訳で、国によってこの日の扱い方が異なります。
 
 
 ここ数日、この日を狙って日本政府を挑発する事件が続いています。
 
 
 国内でも、この日に限って決まった場所で特別な感情を表現しようとする人々がいます。
 
 
 原爆の日や、沖縄戦終結の日もそうなのですが、この日に政府やそれに関係するような有力者が毎年やっているあの追悼儀礼は何なのでしょうか?
 
 
 というのも、そこに参列している人々の考えていることが、日常の中では必ずしも同じ方向を向いていないので、不思議なのです。
 
 
 私は個人的に儀式が嫌いなので、ひねくれ者の変人なのかも知れませんが、神の前で結婚しても平気で離婚する人はいるし、厳かな葬儀をやっても追悼の気持ちなどない人もいたりするし、だから、私は儀式が嫌いです。
 
 
 ここ数日起きている事件について、“冷静ぶった”評論家などが、日本は「大人の対応が必要」みたいなことを言ってました。
 
 
 「大人の対応」とは何でしょうか?
 
 
 たとえば、国際司法裁判所に提訴する。それなどが大人の対応なのでしょうか?
 
 
 私は、「大人の対応」の意味は理解しているつもりです。そして、それは「理想」でもあると。
 
 
 しかし、この70年の歴史を見ても、かつて「大人の振る舞い」が出来なかった日本が、大人のお手本ともいえる“教科書”をいただいて、まず忠実にこの年月を重ねてきて、そして現在がある。
 
 
 終戦期のどさくさに、火事場泥棒的に奪われた島々は未だ返還されず、戦後の講和条約や友好条約などによって安定したはずの隣家との境界も、都合の良いわがままで横領されようとしたりして、しかも、軍隊ではなくて一般市民がそれを犯しているという無法地帯化。
 
 
 これまで、“目的的”に北方の島々に日本の一般人が上陸を強行したという話は聞きません。
 
 
 日本人はいつの間にか「みんな大人」になっていた訳です。
 
 
 このことだけ見ても、「教科書」の目的は十分に達成されたといえましょう。
 


 日本だけが世界一の大人の国になって、見渡せば、世界中どこもかしこも子どもじみたワガママの応酬をやっている。
 
 
 「聖なる日」となった8月15日をめぐって、国内でも水面下では未だに決着のつかない問題も燻っています。しかし、国民の「おとな性」がどちらにも軍配を上げずに平衡を持たせようとしています。
 
 
 世界の中の8月15日。世界の人々は、今の日本の8月15日をしっかり見つめる必要があるかと思います。なぜなら、それを知らずに、いたずらに子どもじみた挑発を繰り返すことで、日本のおとなの平衡を崩す危惧があるからです。
 
 
 それは、政治状況の中にも臭気が漂い始めています。この社会の「おとな性」にジッと我慢してきた無言の憤懣(ふんまん)が、どこかに出口を求め始めているのではという現実。他国が外交問題で内政の不満をごまかそうとしているのと同じで、意図的な平衡の破壊によって、次の状況をつくりだそうという、人類の歴史上幾度も使われた定式がまた使われようとしているのではないかと。
 
 
 8月15日を正しく説明する最も重要なキーワードはまだ発見されていません。これは究極の粒子の発見に匹敵する難問かもしれません。それでも、真理を追究しようとする者は、それを諦めてはいけないでしょう・・・。