びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

少子化対策

 子どもを生みやすい労働条件、生活環境、教育環境、家族環境などの側面からやっているようですが・・・。
 
 
 子どもを生む数が増えれば良いということなのでしょうか。
 
 
 民主党政権がやった「子ども手当」とか「高校授業料無償化」など、子どもを持つ人への“報奨”のようなことが良策なのでしょうか?
 
 
 私が思うのは、子どもの数を増やすという指標的な発想で対策を立てるというのは間違いで、家庭に子どもがいて、その家庭が幸せな生活をしているというイメージの現実形を目標とすべきではないのかと。
 
 
 誰もが自分の人生を不幸にしたくはない。
 
 
 では、どうすれば幸福になれるのか。
 
 
 実は、最近使われる「幸福度」なるものは、子どもを持つか持たないかの問題とも直接関係する言葉で、子どもを持つことがより幸せな暮らしにつながるという現実形が見えてくれば、自然とそれが少子化対策になるのではと。
 
 
 あまりにも子ども世界に関係する出来事が、マイナスイメージばかりであるのが今日の実状では。
 
 
 学校で仕事している立場から考えてみます。
 
 
 家庭は楽しい場所であるだろうか・・・。
 
 
 もともと学校は次代の労働力を育成する役割を担って来たので、それぞれの時代の要請にしたがって教育の理念や方法が変化してきました。
 
 
 学校がやろうしていることが、各家庭の精神的基盤や目標と一致し、同時に社会的要請にも叶うものであれば、すべての立場に連帯感が生じることで、ある種、生き甲斐のような幸福感も生じるかもしれません。
 
 
 どうも、この辺の連帯が、1980年代以後は成り立たなくなって来たように思えます。
 
 
 理由はいろいろありますが、ここでは展開は避けましょう。
 
 
 ただ単純に整理すると、
 
 
①国家・社会レベルでは高度成長が終わり、爆発的成長のない経済社会の中で、企業どうしは、あらゆる、徹底的差別化が唯一の生き残りの方法になったということ。
 
 
②学校教育のレベルでは、その差別化が“多様化”という言葉に置き換えられて、つまらない競争をはじめたこと。
 
 
③そして家庭レベルでは、終身雇用が保障されず家計崩壊を起こし、非正規雇用市場への女性の社会進出が、あたかも女性の自立であるかのようなカモフラージュによって、現実には貧困を加速させ、母親不在で家庭教育の消滅が加速し、その代行が学校や教育産業に転嫁され、この循環がさらに教育の多様化を精密化させ、その営業活動が母親を評論家に育て上げ、父親の精神的存在を否定し、さらに経済的基盤を形成できなくなった父親の権威は地に落ち、離婚率も上昇して、母子家庭の激増を招いているということ。
 
 
 さて、乱暴に区分したこの3つの現実の中に、子どもを包み込む幸福な社会のイメージが見えるでしょうか。
 
 
 小学生までも商品化されているような時代に、子どもの家庭的幸福というものが、一般的イメージになりうるのかということです。
 
 
 実は、少子化は、現実に存在する子どものイメージが加速させているのではないでしょうか。
 
 
「子どものいる風景」自体が幸せな風景になっていない・・・。
 
 
 楽しくない。
 
 
 どこが、、、家庭が。
 
 
 どんな家庭なら子どもは幸せなのか?
 
 
 今日、ゆとりを失い、日々労働に追い立てられるおとな達には、想像するのも困難になってしまっています。
 
 
 だからこそ、そのイメージこそを、政治が示さなければならないのだと思うわけです。国民が切望するようなイメージを政治が描き、そのイメージを壊そうとする利己主義を排し、そのイメージを実現していくような社会改良をしなければなりません。