びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

家族愛

 こういう時代になってしまったので・・・。

 覚悟して、少し長文になりそうです。

 
 人間の性質を考えると、次の順番になります。
 
 ①一番理解できないのは自分自身(制御不能
 
 ②次に理解できないのは配偶者(理解は誤解)
 
 ③その次に理解できないのは子ども(自分も子ども)
   ↓
   ↓
   ↓
 と、自分に近いほど理解出来ず、遠いほど″理解できたつもり″になります・・・
 
 「他人の言うことは信じるが、家族の忠告は聞かない」
 
 のもそういうことでしょう。

 
 なので、、、「家族愛」とはなんでしょうか?
 
 大抵の場合、他人のことは殆ど″他人事″ですが、家族のことは心配になります。何故でしょう?
 
 
 人間関係で「依存の度合」が高いほど意識は高まり、低いほど下がります。
 
 それを家族愛のバロメーターとすると分り易いのですが、普通に考えて、日頃から家族を大切に思う気持ちはそれぞれが依存しあうことから生まれ、必要としなければ″どうにも思わなくなる″と考えられるでしょう・・・。
 
 
 ここから先は誤解を恐れずに書きますが、昔の日本社会のイメージとして、男は仕事、女は家庭という定式が実生活にそして意識にも定着して、それは結婚という制度で強化されて、二人の人間のパワーが合わさることで二人以上のエネルギーが放出されて、その結果として子育てのような大変な営みが可能になってました。
 
 私はそんな社会を肯定も否定もしません。かつての社会構造の評価をしてもあまり意味がありません。
 
 視点を自然界で考えれば、殆どの動植物の生殖・繁殖の原理も同じようなものです。
 
 
 社会科学的に考えてみると、人間の場合だけ、所有と利益、人の搾取(人間の奴隷化=所有化)を覚えてしまって、しかし、そんな人間存在も自然の一部と考えるとこんがらがるのですが、そもそも雌雄動物でもある人間の関係性と、この人間の持つ特殊な性質は矛盾していることは明らかです。
 
 
 本来の自然の摂理で考えれば雄同士、雌同士は異性の所有をめぐって同性で争ったりしますが、雄と雌の関係性には所有はありません。これは、雌雄は″自然的に平等″であるからでしょう。
雌雄の存在なくしては生存が持続できないからです。

 つまり結ばれる雌雄が全くに同質な″依存意識・感情″を持たねば関係性は維持されず、種の繁栄もあり得ません。
 
 
 ところが、″所有と利益を覚えた人間″は、たかだか1万年の月日の中で、この関係性を破壊して、人間の奴隷化を編み出し、それは人類史の中で、ますます巧妙化し、削られ削られ痩せ細り続けた本来の関係性を、いよいよ完全崩壊=人間の滅亡、その近くまで時計の針を進めてしまったといえます。
 
 
 本来、男女平等(雌雄平等)であったものが、所有と利益の社会性のなかで″役割分化″され、その役割に価値観を持たせることでその″えせ関係性″を今日まで維持して来たのです。
 
 ″この社会″はある種″男(雄)のプライド″で維持されてきました。えせ関係性が正義であるという″宗教″が世界中で信仰され、プライドの反対側には差別があると気付くのに、何百年もかかりました。
 
 
 そして、この直近の30年・・・・
 
 所有と利益の定式が限界点に達し、資本主義vs社会主義の終焉、そして資本主義自らも正当性を持ち得ないほどに崩壊現象(極度の格差)を起こし、
 
 その崩壊は=″男のプライドの崩壊″でもあった訳です。
 
 そうなっては、もはや関係性の中では役に立たない、、、、そんな男社会を今私たちは眼前にしています。
 
 であるのに、この集合体の指導者たちは″えせ関係性″はいまだに美味しいと思っていて、すでに対等ではなく、″雄の敵″である女性、そしてさらに″自然的関係性も超越″する人々の意識・感情の浮上にも戸惑い、それらに敵愾心すらあらわにしています・・・。
 
 
 家族愛 
 
 
 この言葉は、恐らく、もはや狭い意味での言葉ではないのだと思えます。″手のひらで世界を見られる″ようになった人類は、何が正しいのか分ります。これからを見つめなければならない人々、もう″この関係性″も、所有と利益も超越し、、、、
 
 これまで言葉としては理解してきた「崇高な理念」を、本当に現実形となるような行動を全体意思によって導き、そして誰もがそれに気づけるような才能がこの世に誕生し、「ああ、これだったのか!」と、新しい光の景色に出会う・・・
 
 おそらく、そこで感じる家族愛とは、人類愛であることを人々は知ることになるでしょう、、、
 
 そして、それはこのかけがえのない自然界への思いと同質であることは間違いありません。