びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

どうなる?

 2/21に途中まで書いてボツにした文章を読み返して、それから10日近くたっても事態の好転はなく、次々と泥縄的な方針、要請が発表されて、そして、これは日本に止まらず世界全体が、たったひとつのウィルスによって混乱させられてしまいました・・・。
 
 にも拘らず、欲求優先の人間の性はパニックを前にしてさらにむきだしになって、原因の危険性よりも人間の危険性がさらに増しています!
 
 たぶん、冷静な態度でみている人々からすれば、
 
 "それみたことか・・・"
 
 ということになりました。
 
 

 1980年代頃までは経済学でも認められていた「マルクス主義」が、「ああ、やっぱり正しかったのか・・・」という声が聞こえてきそうです。
 
 日本では、殆ど「マルクス社会主義共産主義」と誤解されていました。結果的にはマルクスが理想とした考え方を"つまみ食い"した社会主義国家の殆どが失敗して、資本主義の一人勝ちとなり、縄を解かれた資本主義はその後むき出しの欲望主義を暴走させて、血も涙もない世界を作りはじめ、そしてほぼ30年が経ちました。

 社会主義は「計画経済」による国家経済を目指しました。これは「自由主義」を掲げる資本主義と対立的に語られていました。
 
 しかし、100年の目で振り返れば、産業革命後に発展してきた資本主義=自由経済は、様々な問題を引き起こし、20世紀には市民を巻き込んだ大きな戦争とともに、幾度もの経済パニックに見舞われ、さすがの自由経済もコントロールせざるを得ない事態になり、いわゆる「修正」=自由経済に国家が介入する時代となりました。
 
 この時点で、もはや完全に自由な経済は存在しなくなり、「資本主義vs社会主義」という概念も意味なくなったのです。
 
 むしろ、両者とも形をかえた支配構造に化けていったのでした。
 
 「社会主義を名乗った独裁国家」vs「自由と民主主義をかたる"金融ゾンビ"国家」
 
 です、、、。
 
 独裁は自身の本当の姿を見せません。金融もその正体を見せません。独裁は個人ではなく集合体と化しています。
 
 共通しているのは、ある特定個人が主人公ではないことです。この点は絶対君主時代とは異なります。
 
 国民、人類、人間、その集合体そのものがアメーバのように絡み合って構造体をつくり、一人ひとりが個として存在しつつ、大きなシステムに組み込まれながら生息せざるを得ない、、、
 
 生物学的本質の枠の中に封じ込まれつつ、その空間がどんどん狭くなってることに問題の原因があるのだということでしょう。
 

 なのに、社会の指導的立場の人間が古典的錯覚から出られず、まだまだ無限に拡張できるという意識で行動していることで、
 
 いよいよ、限界、人間が原因で引き起こされる自然災害を含め、この物理的空間の限界点にきていると考えざるを得ません。
 
 個人が死を迎えると、その個の意識が消滅します。仮に人類が絶滅すると想像すると、自然界から"人間の意識"が消滅します。
 
 普通に考えて、個人の意識が消滅することは、人類の意識の消滅と意味は同じです。
 
 人間は自分の意識があってはじめて全体の意識を感じられるのですから、自分の意識を失うことは、あらゆる意識の存在しない空間に放り出されることを意味します・・・。
 
 
 私が唯一読んだマルクス関係は「共産党宣言」です。確か50ページ程度のパンフレットのような、
 
 その冒頭に、
 
 「ヨーロッパに幽霊がでる・・・共産主義という幽霊である・・」
 
 みたいな一節が、
 
 思うのですが、今人間は「現実という眠り」から覚めて、この幽霊をみているのではないだろうかと・・・。
 
 もはや大人たちは、一人の非正規労働者でも、一国の首相であっても、比喩としての幽霊を無視することはできないところに来ているのだと思います。