最終回にします。
63年の人生の中で、木材とのかかわりが、すべての軸にあったのだと再認識してます。
ぼや~としていた子ども時代の記憶の中で、我が家の増築時に大工さんと出会って、階段工事で壁面に釘を打たせてもらった記憶・・・。
あの頃標準の壁裏の杉材の香りが記憶とともにあります。最近は嗅覚が殆ど麻痺してしまっているので、それは実音でなく楽譜をなぞるような記憶ですが・・・。
たしか小学3年生の頃かと
中学生となり、わけあって親と離れて暮らし、学校の遠足をきっかけに奥武蔵、秩父を登るようになり、時に一人で山中をめぐり、、、
そこで、植林された針葉樹林の空気の中で自分だけの時間を過ごし、理屈はない、しかし確かな感触が、この世界の意味を空想しました。
故に、現実など無意味なものだと
大人になって、似たようなものが仏教思想の中にもあると知るも、
ああ、人間の手に渡ると固まってしまうんだなぁと、
言葉が伝える限界、それは人間の限界を確信させました。
以来、社会に出てから40年近く賃金労働者として働き、現実の中で、自分を見失うまいと抵抗しつつも、「限界」の中でもがいて、時には具体的な目標物と対峙することもあり、しかし、結局それは"どちらからも"誤解を受け、
まったくに理解しがたい存在として、漂っていた、、、と、
そんなことだったのだと、今、やっと気づき、納得しているのかなぁ、、、と、感じます。
こうして、今、木工旋盤など、などを使ってとにかく木材を触っている。
足腰弱ったので、あまり山野を駆け回ることはできなくなりましたが、木材に触れるだけで、しっかりと感触と記憶の連鎖が確認できるので、しあわせです。
ありがたいことだと、、、
人間世界の流れのなかの、そういう時代、場所に生かされてきたことの幸運に手を合わせるばかりです・・・。