木材は、生木からの切り出し→原木丸太→乾燥済み製材品→規定サイズ加工品等々入手形態の段階は様々で、どこから自分で作業するかで、木材へのかかわり方も変わります。
私個人としては、どの加工段階にも興味があり、どれも好きな作業で、そのために、最低限の予算と作業環境で、出来るだけいろいろなことやろうとしています。
樹皮を使うことはあまりありませんが、それでも樹皮付きの薪にしたり、旋盤加工で発生するおが屑や木っ端なども、入用な人に供給して使っていただいてます。
もともと地面に根を張って呼吸していた樹木が、何らかの理由で伐採されて木材となりますが、手に触れて加工するそれぞれの段階で、自然と人間の関係が自分の中のどこかにか意識されて、不思議な気持ちにもなります。
4月11日の東京新聞「時代を読む」欄に、久しぶりに内山 節の「『死』から始まる無事な未来」と題する一文が掲載されていました。
さすがにコロナの中で内山 節の論説も難しい時代になったかなと思っていたのですが、今回の記事は、現在の環境問題の持っている意味を、誰にでも分かりやすく説明されていて、自分がどんな職業についていても、それが「死ぬこと生きること」の意味と″定義″に関係していて、生死は循環して次の時代への受け渡しであること、そしてそこに希望も持てることを示唆してくれています。
しかし今日、深刻なのは、この定義を脅かす、つまり循環を断ち切ってしまう人間活動が地球規模で行われ、若い人たちの未来に循環が崩壊してしまうのではないか・・・と
木材加工して、下手なりにもその順序を自分の手によってつなぐ、、、その楽しさは、まさにこの″循環″なのだと思います。
この楽しさの本質はあらゆる人々の生きる過程での楽しみでもある筈です。
ところが、
何か地球規模の話になっているのは現実ですが、実は自分の足元、日々の暮らしの″小さな連続″が、一定の長さのある人生の循環にはつながって行かない不安、焦燥、失望になっていて、故に、そこでは人生の満足は得られず、単純な時間経過と訪れる死への恐怖しかないような・・・
余裕のある年寄りが自分の埋葬地の心配をします。死んでしまえば循環するのに、なんで、そこでピリウドを打とうとするのでしょう。太古には、それはすべてを手に入れようとした権力者が、その財と地位を自分の子孫に継承するための装置として準備しました。
現代の私たちの殆どは、そんな必要はありません。
野鳥観察でたびたび訪れる群馬の山林公園は木材加工に似た気分を味わえる環境なのですが、実はそこは山中霊園になっていて、無数の墓石が整然と並べられたエリアが所々にあります。
自然という循環と矛盾するように、そこにはたくさんの人生のピリウドが並べられていて、正直、無残です・・・。
ところで、木材加工で私の嫌いな作業があります。それは最終段階の塗装です。
古来、漆塗りがありますが、なかなか敷居が高いので、今日は「合成漆」という食品対応のウレタン塗料(けっこう高価です)があるので私も利用しています。
木材にも水に強いクリの木や弱いサクラのようにそれぞれ個性があるので、表面塗膜をつくるか、植物性の油を木材に含侵させるか、何れにせよ完成品を長く利用できるようにするには、やはり手当は必要です。
ただし、油は直に乾いてしまうので其のたび塗るとか、塗膜は何回(私は基本10回)も重ね塗りするとか、
はっきり言って面倒くさい・・・
それと、やはり、″完成″という時間の区切りか終了点なのか、そこから先は無い、、、みたいな、
むしろ庭に転げて放置され腐食している木っ端の方が、何かその先どうなるんだろうみたいな・・・
うーn、やはり頭すこしおかしいのか、
ただ、内山節のいっている物質循環は、やはり後者なのではと考えてしまうのです。