2月に放映されたNHKスペシャル「戦場のジーニャ」は、考えさせられました。
〃現代の地獄〃
まさにその言葉のままです。
職場で働いていた昔、生きる糧を得る現場は、常にたたかいだと思っている自分を自覚してました。
自分の考え方や感情、それ以上に正義が優先される厳しい場所。
なので、時には自分を押さえて「演技」を繰り出してでも時間と場所を作らねばならないという意志を持つ。
ただの格好つけであるかどうかは自分には決められない、唯一結果と周囲の反応が答えを出す、・・・ような
・・・・・
そこが、人が人を殺す戦場だとしたらどうなるのでしょう・・・。
そこに「正義」はあるのか?
正義は重要なファクターです。
人が生きる方向を決めるときの、あるいは最も目的的動機かも知れません。
番組を観て考えさせられたことは、
正義が動機になっている日常の中で〃その入り口〃の部分で、戦場の現実からの逃避を超越させる精神力が生み出され、次の行動へと人を向かわせる
今の日本の人々には、そのような場面があるのだろうかと・・・。
番組の本質は、その残虐な映像を強いて見せることで、説明ぬきで人間という生き物の不完全さ、とかく正義が無謬性を求めてしまうことの悲しさのリアルそのもの
ところで、ここ最近の話題、
不正の追及から、のらりくらり逃げ回る政権政党の政治家連中・・・
巨大災害の切迫を叫びながら、巨大都市の集中の柵(しがらみ)から出られない硬直した経済社会
21世紀もこのまま画一的(産業教育)な教育を子どもに強制する学校
法律に縛られて法律を使えない役人
すべて「現場の責任」の一言で逃げおおせる経営者
そして、これほどに″なめられている″現場の人々・・・
低賃金~逃げる労働力
結果としての現場力の低下・・・
日本に住んでいるので、こんな政治情勢を許しているのも、自分が暮らす小さな現場の中でも文句の一つも言えない、それぞれの〃私〃が、すべて原因ですと、思わざるを得ないと、見えてしまいます!
話を戻して、ウクライナ戦争をしでかしたプーチンという極悪人、しかし、その極悪人を許したのは多くのロシア人
ヒトラーを許したのも当時のドイツ国民
エセ宗教集団をのさばらせた安倍晋三を選択したのも当時の日本人
つまり、その招いた結果の大小にかかわらず、ことの原因はすべて私たちが直接生活している現場、、、
現場で自分の言葉でどう生きているのか?
見渡す限り、多くの現場で、普遍的な「希望を感じさせる現場力」が後退しているのでは。そして、そのことによって、国の在り方については投げやりな諦観がはびこり、悪循環的に次々とまずい出来事をゆるしてます。