びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

″境界線上〃の苦しみ

 自分のかつての勤務校での経験ですが、「問題行動」を起こした生徒への指導を決定するプロセスで、高等学校の原則を主張する教員もいれば、″事態の特殊性〃ゆえの特例的判断を苦慮する人もいて・・・
 
 事前に該当生徒から直接事情等を聴いて、指導措置のたたき台を検討する立場の教員が判断に迷うこともしばしばでした。
 
 この世の中、人の、その先を〃さばく〃ような仕事をしている人々はみな同様な葛藤を抱えていると思います。
 
 その葛藤を結論に導く法や規則は存在しますが、教育の現場では〃客観的な事実〃だけでは結論できない空気もあります・・・。
 

  
 行動を「善と悪」に切り分けようとすると、実に古代の哲学にも遡ってしまえるようなテーマになってしまいますが、
  
 現代社会では、人の社会的立場とそこで発生するストレスが人の人格も左右してしまうことが解明されていて、問題行動の背後にあるものが複雑化してます。→精神鑑定
 
 善悪という言葉は簡単に使用されがちですが、善は抽象的で「あいまいな理想」であって、それを達成している人間はいません。一方悪は「悪意と悪行」に区別されるように実際の行動で区別され、〃悪意〃は行動されなければ悪ではないのような「偽善」も存在しています。
 
 さらに、生物の一種である人間には、生命科学的な宿命ももって誕生させられ、幸不幸、それを死ぬまで背負います。
 
 何を根拠に語るのかはよく分かりませんが、「善もどきを着た悪のような人」が、″行動の悪〃を切り取って人を攻撃して裁こうとする風景が一般的です。
 さらに「許しがたい感情と憎しみ」(復讐心)が存在することもあり、それも避けがたい正直ではあります。

 ただし、
 
 事の実際を科学的に考えると、「その悪とやら」が本人の実存に由来するものであれば悪とはいえず、さらに実存から離れたものであれば、なおさら悪とはいえない、、、

 境界線上に生まれた人間は死ぬまで境界線上に生きます。
 そこに悪(罪)を問うことは難しいことです。
 
 という結論がしかたなく出てきます・・・
 
 もうカビが生えてしまったようですが、久々に「実存」という言葉を思い出した一日でした・・・。