日常的には、
どちらが正しいのかという葛藤そのものです。
しかし選択の失敗が運命を変えてしまう、、、ということはなさそうです。
ホッとします・・・。
そう考えないと、日常が厳しすぎます。
60を過ぎ自由選択の時間を与えられ70に向かう。
そんな立場になって初めて気が付くことが多々あります。
過去を振り返り、これは失敗、あれも間違い、と自分を恥じても、結局、自分の存在を否定してしまうことはありません。
逆説的に分かるのは、たとえ失敗だったと思えても、それを後悔しなければいいだけのことで、失敗の一つひとつを肯定してしまえば、、、
つまり、運命が見えてきて、あとは時間の長さだけがポイントで、それが短いのか長いのか・・・
ただし、時間の長短には本質的価値はないので、
短命だったモーツァルトは不幸だったか? などと議論する人はいません。
この閉じた「運命空間の中」にいる限り、誰もが同じ法則に縛られています。
お金持ちになれるか、権力者になれるかなどは本質的な価値とは無縁です
大統領になったプーチンは幸せになれたか? などと議論する人はいません。
運命は本質的価値を表現しています。
日々の選択は常に〃行動の連続中〃に発生し、この行動の連続こそが唯一与えられた術でしかなく、何かを生み出すこと、結果を導くものであったり、
生命存在の意味そのもので、
それを否定せず、連続性に身をゆだねて存在することこそが本質的な意味であり、
運命とはその目的地であると思えます。
命を運ぶとは、日常の選択行動そのものであるわけです。