びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

運と理性

"運がいい" は、経験の度合と比例します。

 行動を繰り返さない限り、運がいいかどうか分からないということです。

=引き籠っていては、運がいいかどうか分からないということでしょう。

 ・・・たぶん
 
 
 行動の結果の過ちが理性を獲得させます。

 "理性"は、人の行動を抑制させます。

 なので、経験と理性、どちらが先かといえば、経験が先という感じになります、、、なので、

 理性が「生得観念」であるというのは、間違いだと思えます。


 このことは、哲学の歴史の古い時代からの命題になっているようですが、"どちらが先か議論"で考えると、どちらも先であり、どちらも後だというのが正しいのでは、、、

 たとえれば、理性は生得観念ではないとしても、"種(たね)"は存在しているみたいな。それで、経験はその種を発芽させ、連続的な生命現象が経験を連続させ、そして、ある種の偶然性が、可能性を出現させる・・・。

 この、可能性の出現こそが、

「運がいい」

 という現象であるのでしょう。


 運がいいという出来事を人は誰でも大なり小なり経験します。恐らく、そういう時は、何がしかの"ああ、やって良かった!"という経験が存在してます。
 
 この感覚を自覚してないこともあります。
 
 実は、
 
 この「運がいい現象」は殆どが無自覚で、「自覚できる運がいい現象」は人間的欲望実現の時しか自覚できません。
 
 人間の哀しい部分です。
 
 
 みさかいの無い競い合いの知恵比べを延々と繰り返すヒトという生物は、生をむさぼり、死を否定しようとする「理性」、

 ほとんどの生命は、死が、種の連続性の連結部に位置することを本能的(プログラムされている)に持っているのですが、どういう訳か人間は、「死を永遠性と結びつけてしまう理性」を発芽させてしまった生物のようなのです・・・。
 
 
 個が、自分の永遠性を求めてしまう
 
 
 このことは、自殺も永遠性
  
 "という理性"
 
 をも導いてしまう・・・

 
 経験行動上のバグだと思えるのですが、 
 
 
 それは、経験性(生命)を断ち切ることで永遠不滅の理性(真理)が得られるという錯覚を人に与えてしまいます。
 
 それで、人間は宗教を発明した訳ですが、そういうやり方で絶望から希望に意識を転回させることが幸福実現・・・
 
 生きながら永遠の理性が得られる 
 
 「なんと自分は運がいいのだろう」
 
 と感じられる瞬間!!
 
 
 と、「分析するのもまた理性」
 
 
 なので、結論としては、「運がいい、わるい」というような尺度(感覚)は個別経験上の単なる結果だということを理性が導いているのでしょう・・・。
 
 プロタゴラスという人の言葉で「人間は万物の尺度である」というのが倫理の教科書に載ってました。