昔、仕事の関係上ギリシャ哲学や中世カトリックとか、ドイツ観念論、、、みたいなものを少し読んでました。
浅学ですが、哲人政治や、アリストテレスの「中庸」とか、信仰と神の存在の証明、カントの不可知論、定言命法とかとか
そういう西洋の哲学を知ると、
「ああ、人類はとっくの昔に答えを出していたのに・・・なぁ」
と、思います・・・。
なのに、、、何故?
身近なたとえでいうと、″何か目的″をもって行動開始すると、材料をそろえたり、方法を考え、その方法のための手段をつくったり、道具の精度を高めるための素材を工夫したり、、、
要するに、″本質的、本来的な目的″に向かっているはずが、その手段の段階で別の部分が進化してしまう・・・
そういう経験をします。
人類の文明史とは、そんなもんです。
人類は、誰一人、「神の存在証明」が出来ません。
しかし、恐らく昔のカトリックにとって、巨大な教会の尖塔の先に存在する神の存在を証明する必要があったのでしょう。
近代科学の出発点でした、、、
なぜ、そうなったのか?
聖書に書き残されてます
旧約聖書の創世記に、神による天地創造の最後に、最初の人類アダムとイブが″創られた″と記されます。ヒトは神の姿に似せて作られた工作物となれば、ヒトは神のカワイイ属性に過ぎなかった・・・
ところが、狡猾なヘビなるものが登場して、そそのかしてヒトを神の属性から引き剥がして、ヒトに神の存在を「仮想認識」させてしまいます。
神のプログラミングにバグがあったともいえます。
こうして、人類は不確かな存在を畏れ、懇願し、しかし一方でその正体を知ろうと、科学文明を進化させてきました。
「環境破壊」
「神の存在」は永遠に分らないということは、過去の賢人達が証明しているので、″自然科学者達の悪あがき″は殆ど本質的意味がありません。空間に存在する物に勝手に名前をつけて満足気です。
科学は人間の幸福追究(追求)だけの手段。
天地創造があったとしても、私たちは実質「五感」でしか認識できず、ともかく脳細胞の中でそれを整理して、″それ″を作り出した″存在″を求めます。
しかし、その過程で生み出される様々な「手段」が副作用を起こして、肝心の万物(自然)を汚染、破壊、絶滅させる現実を引き起こしてきました。行動手段の発達が地球を狭くして、その″悪行″は地球上にまん延しました。
神(代名詞)であれ、何であれ、「自然界の宇宙的法則」に従えば、この事態のきっかけをつくったヘビは罪滅ぼし(バグフィックス)しなければなりません。
こうして、プーチンという名のヘビが、事態を終わらせるために現れたのだろうかと、彼の脳細胞の中で、何が作用してるのかと想像してしまいます。
で、、、
世界の人々の侵略への非難、この事態に向き合って正しく理解しようとする理性的な人々の、その奥底にある怒りと不安は、ある種の終末感への恐怖であるのでしょうか・・・