びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

問題解決

 人間も生命の一種で、「自然界の化学反応」の中で生息して、つまり種の保存(防衛)という本能に支配されて、″適者生存″という残酷な法則の中で苦しみます。
 
 しかし、滅びゆく種・・・いつか人類も・・・そこから逃れられないのは真実
 
 この事実を「合理的」に納得できれば何も問題は起きないはずと思いたいのですが、
 
 ところが、とりあえず人間限定で考えると、人間はその本質を解決しようとして、永遠的に解決策を探します。
 
 本質から離れて、「方法論」に向かいます。必ず根本的解決を得られる方法があるはずだと・・・。
 
 その結果、2つの悲劇がはじまりました。
 
 
  最初に宗教、次に科学
  
 
 最初から今も続く悲劇としては、「本質の奪い合い」
 
 つまりあらゆる問題が本質にあると理解した人類は、その本質の道筋として「神を創造」して、それは唯一真実なもので、自分が救われるために「神を所有」しようとし、生存競争=神の奪い合い となり、永遠の宗教戦争となりました。これは″人類の発達障害″で、消すことが出来ません。幾世紀も、さらに重症化してます。
 
 そこで、これを解決する「方法としての科学」に光があたりました。多くの生物が本能に順応しているのに、人間には上記のような発達障害がある。しかし、けれども、他にはない特別な才能がある!
 
 科学
 
 このような古くて新しい視点は現代宗教にも利用されてます。神は科学的に考えることが出来ると。しかし、実態としてその殆んどが″科学をまとう″詐欺ばかりで、、、残念なことです。
 
 一方、個々の人間はどうだろうか
 
 科学の恩恵をうけて身体的苦痛を取り除く様々な手段を手に入れて、その心地よさから宗教的なものはマヤカシだと嘲笑します・・・。
 
 結果として、小さな人間関係も大きな人間関係の場でも、人とヒトが交錯する場面では、まず必ず何かしらの問題が発生し、″誤魔化しの代償″が行動化されて、不幸をさらに拡大します。
 
 相互に冷静さを失い、一方的に正当性を主張して、言葉も失い、″神からも、科学からも見離される″破滅へと向かってしまいます・・・。

 
 ・・・解決は難しいことなのでしょうか?

 
 この現実を、自分自身の内省として飲み込めば、少しは感情の沈静化を自覚できます。
 
 さらにこれは大げさなことです。日本という国は77年前に戦争に敗北して、ここに書いたような冷静な視点を憲法にも書き込んで、何とか破滅的争いを避ける″科学的冷静さ″によってやって来られました。
 
 とりあえず、自分、家族、地域社会、職場、そして国家体制・・・、それぞれの場面で、何が本当に求められるのか、感情に負けずに″冷静で科学的な言葉″を駆使して話し合える納得的行動に向う必要があるのだと思います。