びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

「関係性」の崩壊

 人間はこの世に生まれて3歳頃から関係性へのトレーニングが開始されます。
 
 教育がはじまると、脳を刺激するあらゆる事象を、カリキュラムと呼ばれる良くできたプログラムで、そして集団生活の中で身につけて行きます。
 生態系の中で人類が繁栄を勝ち取るためのすべてが凝縮されていて、人類進化の本質的なものがそこにあります。
 
 この本質の現実、その全体が時代の社会構造となります。

 
 たとえば、企業組織に属すると細分化された分業の一部に組み入れられて、いわゆる″帰属意識″が生存価値を芽生えさせ、幸福感も悲壮感も、その尺度はその場所での″成果″にかかります。
 
 重要なのは、その成果を生み出すものが何であるのか、その一連のプロセスの「最大責任」は誰にあるのか・・・、
 
 20世紀までの教育プログラムでは、教育の中でこの問いに答える″模擬的″しくみがうまく機能していました。
 
 学級会活動や生徒会など・・・、その中では教員のリードの下で、適材適所のポジショニングが行われ、それぞれの個性が関係性の中で最も相応しい居場所を見つける。
 
 その結果、「責任」は関係性の中のポジションによってその度合いがはかられつつ分散化されて、最終的には組織・関係性の集合体全体が保全される仕組となり、要は全体の調和が成果の大小にかかわらず、″ある種の居心地″を人々に与えられる仕組みとなりました。
 
 実は、このような仕組みが成り立つのは、人類の中にある「平等性の希求」観念があるからに他なりません。
 
 この観念は種の保存にかかわる本能であるでしょう。逆に言えば、この本能が後退すると生存を危うくするということに・・・
 
 
 この危機は何故起こるか、
 
 答えは、
 
 「自由」です。狭義では「平等調和を破壊する自由」
 
 
 人間も生物である以上「進化の枠組み」の中にいます。
 
 自由は進化・変化現象の原動力なので、これもまた宿命・・・
 

 生態系の人間以外の関係性を破壊してでも成果を得ようとする自由も本質的なもので、これは資本主義という言葉の説明の中の「利益の獲得」ということになりますが、
 
 いまや資本主義=成果主義という概念の中で、人間の関係性でも平等調和を切り崩して、自由が利益の一極集中を見せているように、その外側の自然界という大きな平等調和をも破壊している現在の状態であるといえます。
 
 この″時代結果″の中で、大金持ちになった人たちが宇宙空間に出て行くようになりました。その彼らは、宇宙空間から、関係性の崩壊が暴走的に進行している地球を、どのように思ってみているのでしょうか?