びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

第三の誕生

 いよいよ高齢者が人口の3分の1に達しました。
 
 そして労働者人口の減少に合わせて定年年齢がじりじり引き上げられてます。
 
 老人も求人対象となることで、老人低所得者の雇用確保も出来ます。
 
 これを″功″と捉えるかどうかは「健康年齢」に関係していて、健康寿命は男女平均で73歳くらいだそうです。
 
 
 私自身は60歳で定年退職しました。そこから先の″迷走の日々″を本ブログで散らかしています・・・。
 
 最近、私の周囲の知人達も同様に退職して、新しい日々の″環境づくり″に試行錯誤してましたが、ここに来て次から次へとギブアップして、再び賃労働の世界に戻り始めてます・・・。
 
 働ける環境があるということ。これまでの人生で築き上げてきた「関係性」に呼び戻されて″活躍″できる。
 
 これはやはり功といえるでしょう。
  
 健康でさえいれば、理屈では平均74歳までは賃金労働者として働ける。
 
 
 
 一方、″罪″の面はないのでしょうか?
 
 これは殆ど価値観の問題とされ、ここに述べた再雇用された人たちの″働くよろこび″の前では、無用な議論でしょうか!
 

 しかし、その罪を敢えてここで考えると・・・、
 
 もしかしたら、これは資本主義末路の功罪を問う極めて重要な議論ではないのかと思うのですが、
 
 人がようやく手に入れられる「第三の誕生」の、その一歩手前で諦めてしまうことを意味しないのかと、
 
 さらにこの地球環境の末路と、そのことが関係しているのではないのかという、すこし哲学的な思いに駆られます。
 

 
 人類の経済活動(資本主義的生産関係)が環境破壊を深刻化させてしまった、というのはもはや科学的に否定できなくなりました。
 
 歴史的には20世紀後半、資本主義の非人道性への反省から、自由経済に制限がかかり、いわゆる修正資本主義が採用されて、社会保障制度も拡充し豊かな消費社会が実現しました。
 
 が、そこでは環境負荷に対する配慮は殆どありませんでした。

 「経済成長と公害」のように発展に必ず負の影がつきまとい、
 
 その結果が、今、地球環境の危機を引き起こしてしまった。
 
 この先、一番惨めになるのは誰でしょう!?
 

 資本主義は「利益」がなければ成り立ちません。その基本は労働力を提供する勤労者の″我慢くらべ″になります。
 
 21世紀に入り、その我慢くらべで禁じ手を打ってしまいました。利益確保のために″社会保障的部分″をむしり取り、つまりは労働対価のカット、その為の非正規雇用の自由化。
 
 この自由化の正体が日本版新自由主義です。
 
 こうして、戦後日本が築き上げた国民のための経済は終わりました。
 
 
 
 人間は第一に生命として誕生します。
 
 その後成長しながら社会的関係性を持ったヒトとして第二の誕生を迎え、そしてその人生を国民経済がバックアップしてきました。
 
 
 60歳も過ぎれば肉体的に衰えます。
 
 誰にでもその時が来ますが、国民経済はその後も引退した命を支え、人に「第三の誕生」を与えてくれるはずでした。
 
 それまでの賃金労働者から解放され、縛られない自由が授けられ、第一の誕生の原点、それは″自分と自然との関係″ということの自分の回答。そこに到着できるかも知れないという、人間が最も求めていた場所のはずでした。
 
 残念ながら、古きより自然と共存し、その自然の中に人生の行き先きをも育んできたこの国の文化が、たったの150年の資本主義の醜い変質によって破壊されて、巧妙に″ごまかされた奴隷化社会″の中で、命の果てるまで″利益″の道具にされて消えていく・・・。 
 
 今、この状態を人類文明の終焉と呼ばずに、何と表現するのでしょう。
 
 これは、″価値観はそれぞれ″などというごまかしで済まされる問題ではありません。