このブログでも何回か使った言葉です。
本来的には悪い言葉ではない、と思うのですが、
「プライドが邪魔をして・・・」みたいに、否定要素になったりもしますので、残念でもあります。
今回の最大与党の総裁決定プロセスをみても、″広い意味″では、トップに立とうとする人間はプライドがなければ務まらないだろうなとは思えます。
そして、
本人のプライドを多くの人々が信頼によって支え続けられるようであれば、そのプライドは全体のプライドに昇華されて、多くの人々の自信もそこに生まれて、社会全体の糧をもたらす活力が生み出されるでしょう
しかし、
実態は、
この国の指導者になろうとしている人々を見ると、そのポジションに至る経過で、忖度せざるを得ない人の前では自分のプライドを汚し、一方そのことを批判する側にいる者たちも、自分達の正当性を固めてしまうプライドを一歩も譲れず、結果として人々からは信頼されず・・・、
今現在、この社会に拡大し続ける格差を思うと、
プライドに対する信頼などはもはや存在していないと
感じてしまいます。
そういう信頼の選択肢がみつからない現実は危機的ではないだろうかと、
何が危機であるかは、起こってみなければ分かりませんが、信頼できる選択肢がないことは、結局なにもできない事態の中で人々が右往左往するしかない現実を見る事になるのではないか、
ということは想像できます・・・。
今現時点では、プライドなどかなぐり捨てて死力を尽くして献身する人々の存在がギリギリ信頼関係を支えていて、もし、その人々の存在が枯れたならば、、、
プライドなどという言葉はこの世から消滅するでしょう。