びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

自助 共助 公助

 言われなくても、人間はそうやって生きてきたと思いますが・・・。
 
 
 自助というのは、これは"自然界の掟"です。
 
 生を受けたものは、生命、すなわち自らに生を全うするための"命令"が下されていて、殆どの生命体はこの命令に本能的に従って種を受け継いできました。
 
 
 「人間は考える葦である」
 
 有名なパスカルの言葉。
 
 その意味には誤解も教えられてますが、要は自然界の中で弱者である人間が、大いなる力を得るために"神を創造"し、神の下での共同性を構築し、生命維持のための強力な仕組みを手に入れたということです。
 
 宗教(信仰の組織化)
 
 
 「人間の社会的存在がその意識を規定する」
 
 有名なマルクスの言葉。
 
 その意味には誤解も教えられてますが、要は共同性の中で弱者である人間が、大いなる力を得るために"国家権力を創造"し、国家の下での管理を受け入れ、生命維持のための仕組みを手に入れたということです。
 
 国家体制(公権力)
 
 
 なるほど、そういう風に順番に自助、共助、公助を考えると納得も出来ますが、ここ最近の立法をみていると、まさに「誤解が正当化」されて、結局は人類進化を否定して、自然界の進化でなく、人間存在の悪魔的要素、つまり"他の種を否定"した上に存在する人間の生存、そしてそれは=結局は自らをも滅ぼす原理・・・
 
 になっているということ・・・

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 この夏、「年金制度改革」と称する法改定が行われました。本来この制度は自助であり共助であり公助であった訳です。
 
 一所懸命に自分のために働き、そして公私に尽くしてきた者たちが共同して制度を支え、それを国が補償して高齢となり衰えた後も生を全うできるようにしたしくみ。
 
 実は、この仕組みの破壊が始まったのはこの20年ほどの短い間でした。それまでは"自助のゆとり部分"が公平に共助に供給されて来たのですが、、、
 いとも簡単に、単純に、企業利益というパイのためにそのゆとり部分が削られた結果、その根本部分が揺らぎ、同時に格差が"自助格差"を生む悪循環を発生させて、自然界の中で支配的存在になって来た人間自体が自己崩壊をはじめてしまいました・・・>
 
 
 結果として、貧困な発想しかできない政治は、
 
 
 自助、共助、公助、そしてもう一回自助、、、この四番目を法整備したわけです。
 
 人生終盤に、人生の歩みを静かに振り返り、人としてこの自然界、そして社会に生きた意味を自答できるための時間をさらに奪い、その実体とは
 
 自助→共助→公助→死
 
 
 これは明らかに、他の種を支配的に扱ってきた人間の本能的残虐性が、遂に"共食い"に行き着いているという現象で、
 
 現代に生きる私たちは、もしかしたら、その人間存在のクライマックスに居合わせているのかなぁ、、、と、

 
 そう思えば、あきらめもつくかも知れません・・・。