結局はそういうことだと思います。
何が?
一度の人生、人はひとりで世界に立ち向かっています。
勿論これは、物質的な話でもあって、自分の存在は自然界(社会も含めて)の様々な事柄とつながっていて、そのことと無縁で生きることはできません。
たとえば火星で人間は暮らせるか?
という質問に対して、恐らく、普通に考えて、
「それは難しい」ということになります。
そこでは″地球的存在関係″が成立しないからです。
宇宙開発を本気で考えている人々は、そのことが分かっているのでしょうか?
よくよく考えてみると、この地球上でさえ、″他の存在″とうまく共存できない、しようとしない人類が、他の星々に移住したとしても、うまく行く筈がありません。
これほど生命のために恵まれた惑星を大切にしようとせず、同族どうしでのつまらない競い合い、殺しあい、そして、個人にあってはたった一度の人生をその″せめぎ合いの勝者″になることが至上の喜びであるような、気の毒な人生観に支配されて・・・
昔、「生産関係」という言葉が使われました。そして、人間の生産活動をとおして形成される人間関係が、異なった立場を生み、やがてそれが対立的となり、ついには破綻して、″新しい次の生産関係″に発展して行くと・・・。
人間社会はこの″必然性″からは逃れられず、新しい生産関係もまた矛盾をはらみ、現実に起こる様々な不幸も解決することは難しいが、何れかの次段階に進む・・・。
これは、彼の「弁証法」のことですね。
現代、私たちは、身辺から広い世界、もしかしたら宇宙の成り立ちに関する知見も含めて、一度には消化不可能でありながら、しかしそれをいつでも取り出せるほどの「情報関係社会」に存在するようになりました!
このことは、現在未成熟であるので、その意味を本当に理解できる人はあまりいない、、その点に命題が隠れてます。
思えば、人類は弁証法的な発展段階で、様々な理念を獲得してきました。今日の「民主主義」もその一段階で、その民主主義でさえ、旧来の民族主義、宗教、経済形態などの対立軸を克服できずに未完成の状態で、この日本社会も同様です。
民主主義も絶対的なものでなく、その他の事柄と同じレベルの「情報のコマ」に過ぎない、
情報関係社会では、自分が生きる生産関係社会の壁を乗り越えて、あらゆる事柄、望む気持ちさえあればどのような認識も手に入る″究極の利便性″の中にいるので、実は「生産関係社会の到達点」ともいえる民主主義でさえ相対化させてしまい、何か他にもある筈だと錯覚してしまいます・・・。
残念なことですが、
今起きているコロナ
大国の覇権争い
局地的な民族紛争
核エネルギー問題
進まないCO2削減
民主的といいながら税金を私的流用する政治
こどもは未来と謳いながら実は虐待する管理教育
・・・・・あげればきりがありません
見えない海の向こうの問題だとぼーっと思っていた事柄が、現在は自分の手のひらで認識、理解できます。
「私」は紛れもなく世界の中にいるのです。
なのに、この日本社会の日常行動は半径10メートルを超えない″五人組″世界の中・・・。
さらに、世界と私達の関係を描がく立場の指導者達が、そのかれら達の五人組の中でいがみ合っているのが現実、
この社会が、こんな惨めな実態すらも見えない「私の集合体」では・・・。
これはもう救いようがありません
・・・
ある種、悟りのような諦めが意識の中に生まれてきます
そうすると、なぜか、安心感に近いような錯覚が生まれ、
そういう「私」も世界の中にいると、お気楽な自己肯定をし、
そう、世の中は、このような「集合体」と「私」から成り立っているのだと確信できます。
残る問題は、そのどちらを選ぶかが、人生の本質的選択なのかと考えてます。