思えば、人間として生きる私たちの体内にあるすべてのものが、遥か昔から受け継がれてきた「物質の連続性」と同じものである訳です。
その中で、人類だけが石で木を削り、恐ろしい山火事から火を手なずけ、そのことは、次々と物質の応用を可能にし、、、
今日の情報社会にまで到達しました。
このことは、すでに数千年前には理解されて、"その部分"での人間の優越性が意識され、同時に同じ人間どうしの間でも優劣の感情が芽生え、適者生存の原理の中で、さらに進化を加速させて来たわけです。
しかし、
その長いと思われる時間経過の中でも、何一つ変わっていないものがあります。
「物質外存在」の実相理解
と、ここまでは既に5つ前の「不可知論と閉じた世界」で書きました。
何千年も追究しても分からないのだから、今後も分かりません。
"それでいいと思います"
なので、科学がどんなに物質と観念世界を統一しようとしても無理なのですから、
最新の文明機器を使用していたとしても、
そういう科学は"妄想科学"なのですから、
もう諦めたほうが良いでしょう。
生命・医科学がさらに進化して、不老不死が実現したとしたら、それが到達点だと思いますか?
最大幸福だと思いますか・・・?
一方で殺し合いをしている生物が、こんなことを考えることに意味があるのだろうか。殆どの存在は食うのがやっとなのですから。
ただし、唯一思えることは、私たちは素材の中に、素材として生きています。これは"存在の意味"とは違い、"目的を待っている状態"を指します。そしてそれはあるゆる生命に付加されているものなので、無駄には出来ないもののようにも思えます。
存在意味には答えがありませんが、"素材の目的"は相対的に理解できます。たとえ絶対性がなくても、有限であっても、目に見える素材こそに、そこにしか生きている意味はありません。
誰も見向きもしない枯れた丸太の杢目一つひとつに"意味を感じてしまう"ような日常にも意味があるのだろうと思わなければ、生活している意味も失われるのだろうということです。