びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

教師聖職論

 
 
 最近は毎回硬い話ですみません。
 
 
 こんな言葉、聞いたこともないという人が殆どになったかも知れません。・・・“教師は聖職である”・・・
 
 
 今日、教員は厳格な服務は勿論、夏休みの自由研修も剥奪、実績評価なども導入されて、ほとんど一般の労働者と同じになりました。
 
 
 実は昔、教員も労働者だという主張があり、ストライキが実行される風景もありました。争議行為は公務員では違法なので、参加者は処分を受けました。
 
 
 今、徹底した管理主義のおかげで、教員も立派な労働者になりました。みんな時計の針を気にするようになりました。
 
 
「教師は労働者ではない!聖職者としての自覚を持て!」という主張が管理的学校経営を導き、結果として教員は労働者になれました。


 実に、見事な皮肉です。
 
 
 指示され、与えられた仕事を決まった時間の中でやりさえすれば良くなりました・・・。
 
 
 一方、輝かしい実績を出している部活動や、何か社会が受け入れるような活動を展開している先生は“立派なセンセイ”と思われます。これは昔と変わりません。つまり、そういう先生方は聖職者、その他大勢は労働者ということです。
 
 
 聖職者はサンプリングされて表彰されたり、研修活動のテーマの主人公になれます。労働者たちは“そういう研修”に参加させられます。
 
 
 というわけで、つまり逆に、一般的な“社会常識”や通念とはかけ離れた発想や行動様式を持つような先生は、聖職者でもなく労働者でもない、“変人”として苛酷にいじめられ、そのレッテルを貼られた人は現場を去ります。去り方はいろいろですが・・・。
 
 
 ところが、その苛酷な扱いを生き抜く人もいます。その個性の強さはある種の輝きを持ち、孤高を感じさせます。
 
 
 私は、こういう人こそ聖職者であると感じています。同僚に否定されようとも、今流の生徒に理解されずとも、“人造社会”に疑問を感じ、自分の正直さに生きようとする精神こそが、自然界の中に立つ人間の本当の姿であると思うからです。
 
 
 ただし、“そのような存在”に対する個々の論評は出来ません。可能性というものは未知なるものです。福利をもたらすものなのか、災厄をまねくものなのか、可能性は裏腹です。
 
 
 教師聖職論
 
 
 今の学校教育に、何の問題も感じなければ、このようなことは考えません・・・。