びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

上里サービスエリア

 
 
 
 便利になりました。
 
 
 高速利用外でも徒歩入場可能で、買い物や食事もできます。打合せしておいて、サービスエリアで同乗してきた車を降りて迎えに来てもらうこともできます。
 
 
 公共交通網でこういった柔軟な運営をして貰えるのは、高額な利用料金を払う国民の立場に立った配慮であるとも思えます。
  
 
 ところが、本日、知人が長野県から東京方面に向かう高速バスに乗り、上里サービスエリアで下車して落ち合う予定を立てたのですが、“運行規定”ということなのか、上里サービスエリアは「休憩のみ」ということで、下車が認められませんでした。運転手に少し交渉したようですが、、、運転手さんの一存ではどうにもならないということだと思います・・・。
 
 
 高速バスを巡る問題が、重大事故発生などで騒がれています。運転手の労働環境が厳しいものであると想像できます。故に、乗客の規定外のわがままに一つひとつ対応することなどムリ!!というのも“まったくだ”とも思うわけです。
 
 
 このようなことは、今の管理された日本社会ではあちこちで見られる現象で、学校や役所、ちょっとした企業など、“現場裁量”などという言葉は死語になりました。
 
 
 TQCとかTQMという経営用語がありますが、トップダウン方式で、企業が利益向上のために全社的な品質管理体制を構築するのは当たり前になったので、現場が判断する必要がなくなったともいえるでしょう。ITの発達で、現場は情報収集の場であって、問題解決の場ではない。
 
 
 たった一人の乗客の“わがまま”が、あちこちで起こることで、将来的にトップの判断で全体的なサービスシステムの中に組み込まれることもあるかも・・・。
 
 
 しかし、それは起きないでしょう・・・。
 
 
 “このような”生産社会になってしまうと、自分自身もその形の中に生きていることで、自分の立場で考えた場合、「言っても無理」という感情が先立ち、気持ちの中にはあってもそれを表現する人がどんどんいなくなるということです。
 
 
「まったく、融通利かなくてどうしようもないなぁ」


 などと、呑気に過ごしてきた学校教員も、今、自分たちが管理されるようになって、はじめてそのことに気づいているのです。
 
 
 今では自分たち自身もそういう形で子どもを教育して、生徒達もそのような人間性を形成しながら育っています。そして、表面上は学校社会にも機能性が感じられます。
 
 
 しかし、どうなんでしょう・・・。
 
 
 本来、社会改善のために自分の考えや思い、感情を発現させなければいけない場面で黙る・・・。
 
 
 本来的生命力を“社会的檻”によって封じ込めてしまう。
 
 
 いじめや自殺をどうにかしろという人がいるようですが、この現象は封じ込められた生命力の反作用だと知るべきです。


 かつて兵隊をつくっていた学校の姿がありましたが、それは多くの戦死者を生み出しまして終わりました。
 
 
 今、ロボット工場のような学校の姿が現実になりつつあります。それが何を生み出すのか、しばらくすれば見えてくるのかと想像しています。

 
 まぁ、得るものが有れば失うものがある
 
 
 今回も、かつて大陸を夢見ていた頃のように、そのように希望的に考えるしかないのだと思います。