びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

学校教員の研修

 
 
 先に横道にそれて・・・。
 
 
 昨日のNHK週間ニュース深読の特集コーナーで、SHARPの経営危機などの日本企業の後退=中韓の躍進などについて、何が原因なのか、今後どうするべきなのかの討論の中で、4つほど気になる発言がありました。
 
 
「今の日本では、何か新しいことをやろうとすると、足を引っ張られる。かつてのソニー盛田昭夫のようなトップがいない・・・」


「教育にも問題がある・・・」


「イタリアの量販店で、LGを、これは日本製だといわれた・・・」 
 
 
円高で輸出競争力が落ちたというが、Macが日本製だとしても世界中に売れただろう・・・」 
 
 
 別々の発言ですが、根っ子ではつながっています。
 
 
 教育の場でも、国際化とか、グローバル化に対応した云々とか、紙の上では言葉が塗りたくられていますが、実際のところ、若者は海外に行きたがらず、何時までも「円高要因」を言いつづけ、日本は安全、海外は危険、、、と、気分は“ガラパゴス”に閉じこもりっぱなしであるのが現状です。
 
 
 
 私は、これからの日本を考える場合に、2つの思想の相克とバランスの中に道があると思っています。
 
 
 一つはいわゆる「グローバル化
 
 
 もう一つは“民族文化立国化”→これは造語です。
 
 
 前者では、商品経済自体はもう一国では成り立たない時代だと、全体的自覚の中で受け入れて、あらゆるマーケティングを国際規格の中で考えるべきということです。
 
 
 円高対策とか、日本の農業保護とか、従来型の思考ではもはや解決の道はありません。円高の中で多くの企業が海外に生産拠点を移している現状をみれば、MADE IN ・・・の「・・・」にどの国が入ってもあまり意味はないでしょう。そういう意味で、UNIQLO楽天が社内公用語を英語にしたのもその流れです。そして、使えない日本の学卒者の代わりに、外国人を雇用しているのです。SHARPがLGに負けたという言い方が、まるで日本が韓国に負けているような印象で報道されるのですが、ではかつて日本製の洪水を食らった国々は日本に負けたのかということです・・・。
 
 
 
 さて、後者は私の造語ですが、しかしこれは意味としてはいろいろな場面で危機感をもって語られています。
 今朝の東京新聞一面に、日本国籍を取得して北区に暮らす“キーン・ドナルド”氏が紹介されていた。大阪が文楽補助金を打ち切った=大阪の政治家の判断は間違っている。源氏物語は外国で読まれているのになぜ、日本では読まれないのか、と。
 
 
 サッカーナショナルチームの監督、イタリア人のザッケローニ氏は、「日本が大好き」記者会見で日本の教育、しつけ、清潔さ、君が代を歌えるようになりたいと語ったそうです。
 
 
 さて、ザッケローニが褒めた日本の教育が学校教育のことをいっているのかどうか分かりませんが、実際、日本の若者は“かしこく”、ここ10年来定着した管理主義教育に慣れて、暴れるとか、反抗するとか、目に見える形の非道は行わなくなりました。この状態にするために、教職員たちは自分たちの権利意識を封印して、違う意味で団結し、教科指導よりもむしろ生活指導に精力を注入してきました。そして現在では、全体が平穏化するなかで、それでも生じる個人レベルのいじめや自殺、ひきこもり、これらに医学が新しい病名を次々付けるのでそれらの研修に引っ張り回され、さらにIT化が従来型の仕事に付加的作業を増加させました。
 
 
 このような実状の中で、教員は世界を見つめることは勿論、自国の歴史や文化の実際に触れる機会も無くなり、その結果、自分の中の一つのルールだけが精神構造となり、生徒の髪の毛の色、遅刻回数、テストの点数・・・、それだけで生徒を見ることになり、一方の“かしこい”生徒達は難なく大人の行動パターンを見抜き、つまりはおとなからは何も進歩的なことは学べずに学校生活を送ります。 
 
 
 今の教育制度では、次代を育てる一翼を担っているのはやはり学校教育です。そして、それを支えるのは学校教員です。その数は100万人。警察官や自衛官の人数に比べると約4倍。
 次代の育成が国の未来をつくると考えると、その役割の意義は大きいといえます。
 
 
 本題に戻ると・・・。
 
 
 その教員の資質を左右する研修制度。先に述べた、日本の未来を考える2つの考え方を柱とした場合に、その目的に近づくための教員の養成課程や研修制度が確立しているのか、と。
 
 
 どちらに対しても、現在の統制的教育行政下では、その目的達成には遠いと思えてしまいます。
 
 
 教員の資質、それを教科に関係なく単純にイメージにすると、
 
 
 どの児童・生徒とも対話ができる=話題の引き出しが幾つもある
 
 
 固定観念にとらわれず、新しい発想にも柔軟に対応できる=様々な経験の蓄積があり、視野が広い
 
 
 そして、上記のような資質を持ち合わせない教員や管理職とも協働して学校運営の安定化を推進できる=上記のような経験の蓄積に基づく場面構成力がある
 
 
 ということで、研修のキモは、
 
 
「どうしたら人間的引き出しを増やせるのか」


「どうしたら様々な経験によって広い視野と考え方を持てるのか」


 を考えれば良いのです。
 
 
 故に、教員には、そのような経験を持つための研修時間が必要であって、その空間と時間は、「義務的自由」でなければなりません。
 
 
 サルトルが言ったように「人間は自由の刑に処せられている」=「教員は研修という刑に処せられている」
 
 
 この自由が道徳的実存を背景とすることは言うまでもありません。道徳と自由は、一つの本質の裏と表であります。人間の道徳、生き方とは、まさに自由をどのように乗りこなすのかということであって、それを不自由な環境下で語らせることは不可能なのです。
 
 
 先日、教育委員会において、教員の研修権が制限されていることに対して、もっと行政として研修のための整備をするべきでないかとの質問→担当の課長「県の研修施設が利用できる」と説明????
 
 
 これが、現在の教育行政の実態であるということです。