びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

歴史を知る者

 
 ホントウに歴史を学ぼうとする者は二通りに分かれます
 
 
 実は、高校まで勉強している学校の歴史授業は歴史ではありません。
 
 
 多くの生徒が実感しているとおり、それは暗記科目になっていて、近年はとにかく進度を重視して、教科書の現代までいかに到達するかが優劣のようにもなっていて、プリント方式で知識のまとめ型授業で勉強し、そしてテストをやって成績をつけます。
 
 
 最近、はやりの“白熱”とかいって、ようするにディベート形式の授業などやる先生もいますが、申し訳ないが、殆ど遊びのようなものです。なぜなら、実行している先生自体が、ホンモノの「歴史実践者」ではないからです。
 
 
 では、「歴史を学ぼうとする」とは、どういうことなのでしょうか?
 
 
 これには、二通りあります。
 
 
 一人目は、、、
 
 
 “歴史を得た”者は、それを道具(ツール)にできます。人類は、過去を見れば、科学技術を除けば、つまり精神性の部分では殆ど進化していません。先日、ある政治・外交問題について生徒と会話をしていた時に、
 
「我々人類は暴力を排除して、“道徳的理性”によって物事を解決出来る時代を手に入れられるだろうか?」という問いかけに対し、


「それは無理っ!」


 という答えに行き当たりました。


 私は、それを凌駕するだけの論理を表明できませんでした。過酷な労働現場で働く彼らにとって、薄っぺらな言葉の理想論には辟易している訳です。
 
 
 このように、ある種人間の可能性について諦め切っている感情を、過去の歴史において、その感情を糾合して大衆エネルギーに変え、社会を変えてしまった指導者が多く存在します。
 
 
 過去に撮りためた歴史のネガを見られる者は、今の時代の、もっとも効果的な媒体を利用してポジ化し、現在も変わらない人間の感情を巧みにコントロールすることが出来ます。 
 

 二人目は、、、

 
 さて、一方で、その歴史の中で明らかになっている人類の本質を知り、その不完全さを何とか昇華させようと努力する者もいます。
 
 
 そして彼らはそれを“行動に移そう”とは思います。が、、、
 
 
 実は行動せずに、論評だけする者たちも非常に多数存在しています。言葉の便利な点は、いかようにも偽善を構築できるところです。しかし、この者達は突き詰めれば歴史を知り得ていない、つまり、相当に手前で挫折している人々だといえます。
 
 
 それでは、行動とはなんであるのか?
 
 
 それは、歴史の“焼き直し”を試みる者達に対して命がけの闘いを挑むということでしょう。
 
 
 ・・・・。
 
 
 私自身は、もっと体力があれば前者にはなれたかも知れませんが、非常に残念なことに到底後者にはなれません・・・。
 
 
 誰か、この後者になりうる人間とは、一体どのような存在であるのか。それを教えてください。その答えがあれば、つまり、自身がそのような存在になれたならば、生徒の問いかけに対して、自信を持って回答することが出来たと思います・・・。