戦後の生まれの私には、この日の"体感"がありません。
この日は、日本だけでなく、世界中の歴史の転換点でありました。
理念とは名ばかりの「時代精神」と「生活様式」の総入れ替えが行われました。
「戦争責任」
そして、この言葉を巡っては75年後の今でも、"商品価値"が失われていません。
"共産主義"も"社会主義"も言葉の価値を失ったのに、「日本の戦争責任」という言葉には経済価値がいまだ存在してます。
その言葉で生活できる人がまだまだ沢山います。
ただし、、、
身の回りに戦争を体感した人が存在しなくなりつつある今、体感のない人達が妄念だけの言葉の応酬をして、特にネット時代となって、こそこそとした自己満足的で気味の悪い空気をつくっています。
そして、
「コロナ時代の到来」
後世、2020年はそう呼ばれるかも知れません。過去を忘れようとする性質の人間にとって、これは、新しい進化の時代であるのでは・・・。
生命が脅かされる体感が永遠と続く
一つの時代に括られる体感も、幾世代かの時が経てば忘れられます。歴史として記録され、それぞれが知性として保存し、受け継ぐことは可能ですが、それは全体化されません。
"体感"のみが正しく、そして知性や言葉は2次生産されたもので、それぞれの生まれ育ちの環境と今の需要の違いで幾らでも解釈変更、脚色されます。
なので、「8月15日の体感の無い私」には何も語る資格がありません。
しかし今、今年の初めころから、ジワリと締められるようなこの体感は、何時まで続くのか、
そして、これには終わりがあるのか、
そして、これには善悪が存在するのか、
そして、これには法律が必要なのか、
そして、これには何か普遍の理念が関係しているのか、
そして、、、、、、、
はじまったばかりですが、
終わりはあると信じたい一方で、
人類にとって、普遍的な共通理念が誕生するのかも知れないという思いが"永遠の体感"を期待するのは、間違っているのでしょうか?