びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

自然と社会システム・意識の関係

 "コロナしばり"のせいで、人々の行動が制限的になっています。
 
 出掛けるにしてもなるべく人のいない場所にします。
 

 たとえば、家族の趣味の野鳥観察などは選べます。
 
 "人のいない自然界"では普段意識しないことに意識が向きます。一羽の鳥を見ても、その生息場所や鳥の様子から、いろいろなことが分かり、興味はつきません。
 
 この自然界のあらゆる物質が、全体の部分として何らかの因果関係、相互作用に属していて、それは人間との関係あるなしに関わらず存在していて、私たちは自分が意識的にならないとそれを感じることも知ることも出来ません。
 
 「意識する」ことこそが人間の「生命」ともいえるのですが、なかなか"意識的"になれないのも現実で、大体が予定、予想していなかった"事件"に当たることで、突然「意識が発生」します。
 
 個人的にこの半年を振り返ると、木工作業の関連で独自に開発しようとした電動工具の失敗、まったく考えられないような場面で愛車を壊してしまったり、最近では新しいパソコンソフトのために、10年近く使って来た自作パソコンの改良で予期しない部品の不具合、、、、その他にもありそうですが・・・
 
 そのどれもが、その問題の解決以上に、解決のために生じた出費や新たな人との出会い、関連する知識、へこんだ気持ちを何とかしなければならない自己検証、、、等々
 
 平穏の中では得られない、しかも得たくない経験によって人生の違う風景まで見てしまう。
 
 現在、もしかしたらこの社会何処もかしこも、人々の人生がそんなことになっているのではないかと、容易に想像できます。

 
 同時に、その人間社会のシステムの中に起きている大小様々なシステム変更を余儀なくされている現実のすべてが、野鳥一羽の生息の厳しさにも比喩できる、この自然界の厳しさなのではないかと、、、
 
 望んでもいない、"そういう意識"に脳裏を占拠されてしまう"自然を感じ"ます。
 
 
 ともすると人間は、人間社会のシステムで起こる問題を、その人間社会のシステムの中だけで解決しようとする意識にさいなまれてしまいます。そのことで、ある出来事への直対応に埋没し、恐ろしいことに、場合によってはそのことで命を絶ってしまうことも多々あります・・・

 
 少し冷静になれば、相当に厳しい現実であっても、人々はそこに望まなくも得難い"意識の発生"を感じ、限りある命の意味を求めて、そこをステップにして次の行動を起こすことが可能になります。
 
 どうも、野生の世界を眺めていると、それが意識なのかどうかは分かりませんが、殆どの生物はそうやって一所懸命に生息しているように思え、、、
 
 実は人間もそうして、粘り強く、この文明を築いてきたのだなと分かります。