びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

こだわりの人


 これこそ、すべて社会の財産です。
 
 
 若者は、平成以降の長い混迷の中で、進路選択の困難さにぶつかったままになっています。
 

 進学するか就職するか
 
 
 大学に行くか専門学校に行くか

 
 民間企業を選ぶか、公務員受験するか
 
 
 正規雇用となるか非正規雇用となるか
 
 
 総合職になるか一般職として働くか・・・。
 
 
 こういう定式的選択では、ほんとうの人生選択になっていません・・・。
 
 
 
 現実は、どんな道にすすんでも大変です。
 

 
 “ブラック”という言葉で包括的に働く社会が語られています。
 
 
 一流の学歴を経て、世界とつながるような仕事をする人も、小さな会社で小さな受注で仕事をつないで懸命に働く人も、働くことの大変さは同じで、半強制的な構造の中でもがき、拒否できない過重。
 
 
 “ブラック”
 
 
 それでも、それは“自分が選んだことの結果”でもあり、それを拒否するのなら、自分勝手に生きればいいじゃないかと・・・。
 
 
 つまり、“ブラック”とは、“不本意労働の強制”であっても、それも生きるためという問いへの答えの一つなのだと。
 
 
 若い社員達が早朝から夜まで、わいわい元気に仕事して、「あ〜あ、今日もつかれたなぁ〜。どっかで飲もっ」と日常風景が流れているようなところはブラックじゃない。
 
 
 しかし現実、そのようなことはあまりありません。
 
 
 たとえ清潔で効率的であっても、自分のこだわりでは行動できない労働環境が当たり前になってしまいました。。
 

 
 こだわり=個性 だとしたら、個性は黙殺される時代。
 
 
 というか、個性が“プラスチックのガラクタ”扱いされる時代になってしまいました。
 
 
 それぞれの、当の本人の長い年月のこだわりさえも、賞味期限の短い一過性の価値にされてしまいます。
 
 
 実際のところ、いまや人間の作り出すものはすべてガラクタかも知れません。


 ただ、その水平に“権威の杭”が打ち込まれてガラクタが選別されて価値の相対化が起き、権威にいくらか庇護されるガラクタと、まったく無視、黙殺されるガラクタが充満している時代となりました。
 
 
 現在、その価値の相対化は権威による選別というよりも、ほとんどは“つくられた市場”の選別で起きています。
 
 
 
 本来こだわりとは、そのこと自体で人間の価値を高めるものである筈でした。
 
 
 市場の価値は、それ自体からは離れた空間で価値が決定されてしまいます。
 

 価値のあるものが価値を失い、価値のないものが実体のない価値に踊る。
 
 
 実体の価値は存在しないに等しくなりました。
 
 
 すべて、ガラクタということ。
 
 
 市民社会が見えかかり、せっかく“こだわりの価値”を持つ者達が世の中に展開しはじめたのに、それをまたガラクタ扱いするような社会に戻ってしまうと、それぞれの価値などは無視されて、殆どは無差別に扱われるようになり、
 
 
 そして、こだわり=個人の価値、など、かえりみないヒドイ全体状況となります。
 
 
 実は、歴史認識とは、そのような間違いをやってしまった過去を知ることなのではないかと思うわけです。