びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

白村江の戦い


「はくすきのえ」と読んでいます。


 西暦663年、唐・新羅の連合軍と百済を救援しようとした倭軍による戦いで、倭軍は大敗し、朝鮮半島から後退しました。
 
 
 この戦いの後、日本の朝廷は内政整備と国防に急ぎ、そして672年に起きた壬申の乱を経て、天武天皇の時代に「天皇専制体制」を築き上げていきました。
 
 
 天皇の神格化はこの頃の外交問題と無縁ではなかったのです。
 
 
 領土や資源をめぐる戦争でも、国家の正当性を論じるためには宗教的背骨が必要になります。 
 
 
 宗教は民衆支配の具でもありますが、権力はその宗教を統制するために、さらに神格を必要とします。
 
 
 古代東アジアの争乱の後に、日本の天皇が自らの神格性を帯びたのも、強大な中国を相手にするための正統性であったのです。
 
 
 中国の王朝が滅び入れ替わっても、神である天皇には何時の時代もその立場を犯されない不滅性が必要でした。
 
 
 西洋史における、教会が国王に大義を授けてきた歴史とほぼ同じメカニズムです。
 
 
 以来1300年、日本歴史の節目節目に、この“メカニズム”に油がさされて動力作動してきました。
 
 
 休眠期は穏やかな“文学世界”を生み出したりもしてきましたが、動力作動する時は、極めて露骨な政治エネルギーを発生させてきました・・・。
 
 
 
 
 安倍首相が「天皇陛下万歳」とやったそうです。
 
 
 彼はそのメカニズムを良く知っているのでしょう。いや、「本当に良く知っていて欲しい」と思うのです。
 
 
 科学がそうであるように、真理は救いともなり凶器ともなるからです。少し前、指導者達は「良く知らなかった」がために、これを凶器にしてしまいました。
 
 
 良く知っているのであれば、これを権力正統化ではなく、「穏やかな文学世界」の精神として欲しいと思うです。
 
 
 靖国参拝が問題になるのは、靖国神社という装置が、その凶器性がもたらした戦争犠牲に他ならないからなのです・・・。