そういうものも感じます。
国会は相変わらず揚げ足取りのような議論をやってます。
野党となった民主党との質疑で、政権党側の態度が相手を小馬鹿にしたような態度を取るのが気になります。
高い支持率が傲慢さの裏付けなのでしょう。
原発、TPP、沖縄問題、そして憲法、これまで結論の得られなかった重大問題について、千載一遇の好機とばかり、動きがハッキリして来ている段階で、殆どのマスコミや、そして世論はまるで無関心のような雰囲気になっています。
この無関心さこそが、与党の自信となっているのでしょう。
昔、学生の頃、友人が書いた文章に、
「自らの命を積極的に消滅、すなわち自殺をすること、能動的な死を選択することはできないが、何かの外的要因で自分の命が終わらされることは、今の自分にとっては受け入れられる・・・」
というのがあり、この一節は今でも忘れられません。確か、彼はこれを“受動自殺願望”のような言葉で表現していました。
幸い、この友人は今も元気に活躍しているので、その思いはむしろ生きていく決心であったのだとも解釈できます。
「死ぬ気でやれば、何とかなる」
しかし、今、この一節の意味を、殆ど言葉通りに内包している人々が多いのではないかという危惧があります。
世界の国別自殺率の高さをみると、元来まじめな国民性の国で、経済的に行き詰まっている国々があげられます。
反対に、経済的に裕福でなくても、明るい国民性のラテン系の国々は低く、多民族社会のアメリカなども低い国に入ります。
資本主義で成功した韓国や日本が最上位にあることは、やはり憂慮すべきことで、その背後にどれだけ多くの“受動自殺”の諦観を持った人々がいるのではないか、ということです。
要因を探すのはそれほど難しくないでしょう。
1.高齢化=病や障害に苦しめられる人々の増加
2.少子化=子どもが欲しくないのではなくて、結婚→家庭づくりという本来の人生の喜びを疎外させる経済社会。
3.上記2とも関連して、正規の職業に就けず、「死ぬ気でがんばれば・・・」は、もはや真実ではなくなった現実。
4.一方で一部の人間、しかもそれが自分の日常生活の側に存在する“人生安泰者”に対する妬みを持つ、そういう卑近な自分という存在自体への自己否定。
5.その逆作用として、劇症的犯罪に走ったり、今ではネット社会で“仮想自分”を暴れさせたり。
あげれば、まだまだあると思います・・・。
ただし、これらの原因が、そのまま自殺という結論に至る訳ではなく、それは“受動自殺”にとどまっている間は、生命は維持されます。
極めて重大なことは、ある種、このような諦観が社会にはびこると、社会そのものを否定、能動的でなく、受動的に「どうにでもなれ・・・」という意識が全体を覆うことです。
投票率の低さなどは、目に見える症状です。
そして、だからこそ、その「どうにでもなれ・・・」という動機が、“夢を期待した”民主政権の崩壊の後だけに、受動的に現政権の高い支持率に流れているのだと思います。