びーすけ工房でひとやすみ

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「平成維新の会」という歴史現象 そして・・・

 今年2月頃には、維新の会の国政進出が描かれていました。
 
 
 国民の不満を背景に、瞬く間に国家権力に登り詰めたナチスになぞらえる表現もありました。
 
 
 さて、今、半年過ぎて秋風がそろそろ来るかという段階で、見えるものが見えてきています。
 
 
 地方自治体の長としてやってき来たことは、内政面では国政でも展開できることだと思われます。
 
 
 たとえば、公務員の管理強化は全国民的支持が得られます。
 
 
 抜群の知名度、人気は、保守層を崩し始めました。乗り遅れまいと、音をたてて糾合しそうで、すでに維新の側は高いハードルを課して、殆ど買い手市場になってます。
 
 
 実に情けない・・・。
 
 
 一方、一応“脱原発”を掲げて、市民派の選択的支持も得られそうです。
 
 
 →も←も吸収して、まったく世の中を変えてしまう爆発的エネルギーを蓄えそうです。
 
 
 実は公務員規律の確立は、その時のための絶対的条件なのです。
 
 
 彼らに必要なのは、決して不平不満、疑問を持たない忠実な行政の実行部隊です。
 
 
 徳川幕府譜代大名みたいなものですか。
 
 
 一人ひとりは弱く小さくても、その集合組織はあらゆる敵対勢力よりも勝る、みたいな。
 
 
 労組や特定団体の影響下にあるような公務員では話にならない訳です。
 
 
 
 さて、戦後体制に育ってきた私の目から見ると、今現在は、1930年代前半の様相に近いと思います。
 
 
 国民の不満が満州進出を後押しし、新興財閥と新興官僚が影響力を強め、わずかに残っていた“旧世代の理性”は否定されて、一気に反動的な社会体制が出現しました。
 
 
 今、学校の先生や警察官、検察官も批判の的になってますが、これは次の現実の前兆です。
 
 
 これら公務員の世界が“正常化”されたならば、今度は誰も公務員に逆らえなくなります。
 
 
 公務員は橋本イズムの代弁者となります。維新を支持した人々は、自分たちの選択の正しかったことをとりあえずは感じるでしょう。
 
 
 分かりやすい、目標が“あるように思える”国家の姿。
 
 
 流れは、そうなりつつあります。
 
 
 
 ただ、気がかりなのは、維新の顔ともいえる橋本徹の言説に、最も根本的な哲学を感じないことです。
 
 
 最終的に、この国をどのようなイメージの国にしようとしているのか。そして世界の中の日本の立ち位置をどうしようとしているのか。
 
 
 つまり世界とつきあうということは、洋の東西、全人類の歴史や宗教との折り合いもあって、その時、日本人のアイデンティティをどのように表現しようとしているのか?
 
 
 この国の地方を巡ると、無口な民族性の背後には実に奥の深い精神性があることに気が付きます。そして、これは、人類の無形財産の一つに数えられるとも思えます。
 
 
 世界経済が大きな変革期になろうとしている今、この島国に生きる我々の指導者が、そのような精神性を“巧みな言葉”で表現できなければ、結局は再び不幸の繰り返しを招くのではないかと、心配でなりません・・・。