びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

ひたひたと来ます

 
 都教委が、「自分たちのことを批判した」と解釈できる日本史教科書を学校から排除する、と報道されました。
 
 
 http://mainichi.jp/select/news/20130627k0000e040226000c.html
 
 
 現場で社会科教育に従事している者としては、違う見方になります。
 
 
 前に書いたことと重なるのですが、
 
 
 政治問題になるような事柄は殆ど新しい時代に集中していますが、教科書の後ろの方まで授業を進めるのは“学習が困難”な学校はもとより、入試対策に追われる学校も、じっくりとそのようなテーマを展開する余裕はなかなかありません。
 
 
 それを、敢えて重要テーマとして授業展開するかしないかは教員の個性によります。
 
 
 社会科の教員といっても、政治的理念をコアに実践している人ばかりではなく、むしろそのような人はもはや希少です。
 
 
 また、そのような教員は教科書に関係なく“重要だと思うテーマ”は自分で研究して展開できる能力を持っています。
 
 
 そうでない、関心のない教員はどうなるか・・・、
 
 
 文科省検定を通過した教科書に“重要テーマ”が載った場合は、その事柄にお墨付きを与えたのと同じ意味を持つことになるので、もしかしたら、万が一、政治的関心の低い教員も取り扱うかも知れない・・・、いや、学習指導要領を尊重するのであれば、教科書はしっかり使わなければならない・・・。
 
 
 と、思うかも知れません。
 
 
 と、都教委も思ったのでしょう。
 
 
 
 現場から“見上げると”、このような議論は一部政治家やその親衛隊を演じる一部のお役人、そして学者、大手出版社など雲の上で起きている話で、教育現場では主たる話題になりません。
 
 
 歴史、そしてこの社会を「右→vs←左」と単純化すると、右は保守で有るが故に左に先んじ、左は左矢印が故に常に右に存在し、この両者の相克は、結局のところ何の結実も導き得ない歴史的宿命にあります。
 
 
 このような無駄に浪費されているすべてを、最前線に投入できれば、直面する「重要テーマ」について、どれほど前進が見られるか、そう思わざるを得ない良識が、かろうじてまだ現場には存在していると思います。
 
 
 そのような声なき良識が、やがて掃滅される時が来るかと思うと暗澹(あんたん)とします。