コンフェデも決勝を迎えます。
日本も良く健闘したという論調もあります。
素人の直感的感想で申し訳ないのですが、3戦目のメキシコ戦後半終了間際に、遠藤から岡崎に渡ったボールがゴールを決めた瞬間をテレビで見ていて、何か理屈ぬきの爽快感を感じて、
ああ、これなんじゃないのかなと思ったのです。
それは、踊るように流れるブラジルなどのチームにも感じるものです。
ブラジルサッカーが即興のような愉快さを感触させるのに対して、日本のサッカーが設計図を頭に入れて、考えながら組み立てているようと表現したら間違いでしょうか?
そういう意味で、3戦目の岡崎のゴールにはそのような“感触”があったのです。
これには、いろいろな表現ができると思います。
流れるようとか、いきおいとか、動物的とか、直感的とか、天性のもの、民族性とか・・・。
ただ、次の瞬間、違う思いもよぎりました。
最近「共有」という言葉が頻繁に使われますが、どうも、この言葉は誤解されているのではないかと。
日本のような組織重視の社会では、この共有は、それぞれの個が組織化されるために同じ方向性を共有して、一つになる・・・、みたいな意味があります。
自分勝手な判断は駄目みたいな。
全体を規定するものに、自分(個)も従うべき。それを逸脱すると組織力が低下し、効率も下がる、みたいな・・・。
確かに、このことはゴール手前の80%のところまでは正解なのだと思えます。
80%の到達は世界的に見ても大変なことで、それは日本の素晴らしさなのかも知れません。
しかし、逆に、そのことが、残りの20%を疎外しているとしたら、このことについて、どう見直しをし、どうしたらその20%を手に入れられるかを考える必要があるでしょう。
おそらく、ピッチ(現場)では、選手自身がその感触を実体験しているのだと思います。たぶん、“思考”して動作している以上は限界があるでしょう。思考とは自分と他者との関係性を考えているということです。多くの人が考えている「共有」とはこの思考のことです。
しかし、実は、この思考は本当の共有ではありません。
共有とは、自分も含めた「すべての個の尊重」が正しい意味だからです。
すべての個の尊重には、相互信頼と同時に個性の発揮が不可欠で、その個性の発揮の尊重こそが、相互信頼に共有感を高め、全体の組織力を確立しつつ、個性が最大限に発揮される場面を作り出すのだと思います。
これこそが、日本に不足しているものであると思うのです。
現状、結局のところ、その個性の発揮が求められる環境下にある海外活躍組が、ナショナルチームでも活躍している所以です。