夜回り先生(水谷修氏)が、″さようなら、哀しい″と言い残して自身のブログを閉鎖してしまいました・・・。
著作を読んだことはありませんが、テレビやネットなどで流れる活動の様子などを見聞きしていました。
同世代でもあり、学校教育だけでなく人間社会の闇を感じながら仕事をしてきた者共通の観想があることは感じています。
教育の仕事には無力感がともないます。私などは「教員も所詮賃金労働者」と割り切ることで、特に定時制などではその目線が生徒との″共有間″を持ち得た経験も有りましたが、人の人生に″最終責任は持てない″という部分では、夜回り先生も同じであると考えています。
人生はものづくりだと考えています。狭い意味でも広い意味でも。
商品生産に携わる人は商品で人を幸福にしますが、一方で期待を裏切ることもあります。でも、その責任は問われません。
教育生産に携わる人は知識を売り、そして情操を育みます。ただし個性は万人には適応されませんから、すべてにその責任は問えません。選ばない自由もありますから・・・。
通常の商品は物質的形があります。一方教育商品は言葉と態度が情報として切り取られますが、これが実に厄介なもので、たいてい理解よりも誤解が先行します。
だから責任の取りようがありません。″ただしく誤解″されるのですから。
なので今では、この「宿命」を回避するために、教育を通常商品のようにマニュアル化、品質規格化とコンプライアンスによって、特に法的責任回避のシステムを確立しています。
つまり、教育が無力(限界がある)であるということは、この現実が証明しています。
とにかく悩みを聞いて、″明るい兆し″を授けてきた夜回り先生の疲労度は相当なものであったと想像できます。
その彼でも、責任は取れません。
なので、一言いえるとすれば、いまだに何か勘違いしてこの仕事をしている人もいますが、それでは″絶対に持ちません″
言葉も態度も無力です
では、何があるか?
今でも思っていることは、「あるがままの自分」です。鎧のようなツールを脱いで、あるがままの自分と他者を対峙させて、対等な立場ではじめて言葉を交わす・・・
それでも言葉は通じません。しかし、正直な関係は成立します。