びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

体罰と管理


 これは同義語です。
 
 
 なぜ現在体罰が否定されているのでしょうか?
 

「必要悪」が「不必要悪」、いや「ただの悪」になったからです。


 昔むかし、学校が荒れていた時代には、“泣く子もだまる”先生が“保安官”のような役割をしていました。“そこは避ける”緊張感が、学校の中の暗黙の秩序になっていました。
 
 
 校長にも頼られて学校の“防波堤”にもなっていました。
 
 
 「人権派」には嫌われていましたが、人権派は緊急事態にはあまり解決能力がなかったので、彼らにとっても必要な存在であったのです。
 
 
 いつの頃からか、そういう先生がいなくなり、教員達は組織化をすすめました。
 
 
 「ゼロトレランス=寛容度0」の旗の下に結集
 
 
成果主義」が大人社会を管理しはじめたことの“学校版”が取り入れられたのです。
 
  
 これも人権派は嫌いましたが、ゼロトレ派は組織的に行動するので、段々と空気のようになって、例えば、「定員内不合格」なども、行政さえ認めざるを得ないようになっていったのです。
 
 
 それは市民感情にも違和感がなかったのです。
 
 
 だめなものは、だめ!
 
 
 こうして年月がたち、「コンプライアンス法令遵守」は学校の隅々まで行き渡り、ついに教員も逆に子どもたちに評価される立場に至りました。
 
 
 “禁じ手”とされることは、「必要悪」であったことでも否定されるようになりました。
 
 
 必要だったものが不必要になるということは、別のことがそれにとって代わったということ。
 
 
 それが、「管理」
 
 
 故に「体罰」と「管理」は両立しません。
 
 
 本来の管理とは、上の者が見下すように人を支配することではなく、「相互監視」が必要です。
 
 
 市民社会の目標は、この“健全な相互監視”の実現です。
 
 
 
 
 実は、今日の話は体罰の話ではありません。
 
 
 これまで「必要悪」には自己規定と覚悟もありました。


 体罰教師はその責任が問われ、処分されます。


 ところが今この世で行われている「管理」には、自己規定もなければ、責任をとる覚悟もありません。
 

 取り返しの付かない核事故を起こしても、


 思いつきで外交問題を引き起こしても、
 

 何十年も働いて来た人々を、定年退職目前、突然に、一方的に切り捨てるような禁じ手を打ち、現場に大きな混乱をもたらしても、
 
 
 これは、国民に支持されるとうそぶき、次にはその国民にも禁じ手を打っても、
 
 
 このような“まるで暴力”をふるっても、
 
 
 それらの管理主体は、誰も責任を問われません。


 これらは、健全な相互監視が機能していない現実です。


 つまり、今の「管理」も「必要悪」であるということの現実なのです・・・。