これは新鮮な言葉でした。
定時制に来る生徒の入学動機はいろいろなので、この話は一般化はできないのですが・・・。
A君は小さい頃から相当に元気な少年だったのだと思います。
教員生活の中で、学校の器に収まらない若者には時々出会います。自分の勤める学校に、とても収まらない若者は去って行くので、その後のことは知りません。
定時制に異動して3年。
収まらない若者達とともに暮らしています。
7割近くは、何かしら働いています。A君はプラスチック製品の成形工場で働いていました。
「型」に収まれない日々を送ってきた彼にとって、その職場とて収まらない場所であることは話を聞いていれば分かりました。
しかし、その話すこと、言葉一つひとつが、その辺の普通の高校生とは異質な、“身体言語”として私に飛んできて、“表層言語”で成り立っているこの世の中の理不尽、不健康、不正義、それを生み出している階層構造を、見事なまでに見抜いていることに驚かされます。
A君の職場で起きていることは、この社会そのものであるのです。それは同時に、変質しつつある学校社会も同様であります。
この対話に、私自身が逃げて表層言語を弄すれば、私たちの関係は終わってしまいます。
ここに勤める教員は、自分も身体言語で“応酬”しなければなりません。
このやりとりで見えてくることがあります。
自分がその水平面に立てるか、ということ。
形は違っても、同質の身体表現を持てるか。
表層しか見えない人には、そのみじめな嫉妬心ゆえか、これを低質な“迎合”とする不理解が多々ですが、それはそれで仕方がありません。
それが大多数なのですから。
実は、私自身もその大多数の方だと思っていますから。
“応酬”とは、そんな綺麗事ではありません。
それぞれの生き様の比べっこに過ぎません。
唯一、身体言語には嘘がないので気分が良いのです。
A君とて、嘘のない話であれば、おとなの話を聞けるということです。
本題はここからです。
A君元来の器用さは、職人的仕事でも発揮されて、同様な“身体仲間”の先輩職人にかわいがられて、めきめきと上達し、“人材”になっていきました。
その彼が、何故その職場から去ってしまったのか。
その理由はあります。詳細は省略。
「自分に正直」というのはうすっぺらい表現に聞こえますが、ほとんどのおとなが自分に嘘をついて生きていることを考えると、これは人間性の類型ではなくて、「個性」であると評価できます。
こうして彼は一度無職となり、次へと向かいました。
「次へと向かう」ことは意志ではありません。ある日、突然ひらめきのように、何かが自分に降りてくる瞬間が誰にでもあって、それを真剣に分岐点と感じ、信じるか信じないかだけが人の人生を変えます。
A君の分岐点は直ぐにやってきました。
あまり人気のない3K職場。型枠大工の親方の下で大きな構造物を作り上げる仕事・・・。
その日からA君の雰囲気が変わりました。ただ本質が変わった訳ではありません。
“水を得た魚”
考えても見てください。こんな幸せなことがあるでしょうか。
同時に、私たちが忘れてしまったものがそこにあります。
「俺うれしいんだよね、ホント。親方に怒られると・・・」
救いは、私たちがまだ、親方が何故怒るのかを理解できることであると思います・・・。