言葉が刺激的ですが、
個性的か平凡かと語り始めれば抵抗ないかも知れません。
人と比べて、、、と言った場合、″普通の人と〃くらべてという意味になります。
「普通の人」というのは、変化に慎重、現状肯定=妥協が得意で、嫌われるのも恐れるので、人を攻撃するのも苦手です。
これは日本人の一般的性質をあらわしています。
長いものには巻かれろ・・・逆らわない
寄らば大樹の陰・・・集合すると安心
出る杭は打たれる・・・だから、自重して冒険はしない
など、臆病者を揶揄するような表現も沢山ありますが、一方肯定的な表現でもあって、むしろ、人生を安全安心にするための〃戒め〃にもなってますね。
前に書いた「ゆとり教育」の時代は、一方で「寛容度ゼロ教育」も展開されました。
その頃は、まだ「発達障害」という言葉は教育現場には広まっていなくて、「困った児童や生徒」を前に生活指導の仕事は、教科指導よりも困難になってました。
弱いセンセイは、「言いつけっこ」作戦で〃密告制度〃を設けて、子ども集団に差別的雰囲気を作って「問題児」を際立たせ追いつめました。その結果、このことは「いじめ」に変質して、、、その後のネット社会の中にも拡散してしまって手の付けようがなくなりました。
実は、この子ども社会のありさまは大人社会のコピーそのもので、セクハラ、パワハラ、モラハラ、、、なんとかハラ ハラ ハラ
21世紀になっても、結局精神文化は成長せず大人社会も断絶と衝突、独裁者がのさばる世界になりました。
原因は、、、
日本人に限らず、、、人間が臆病な生き物だということに尽きます
臆病の対語はなんでしょうか?
大胆、行動的、衝動的、感情的、過激、攻撃的、自己中心的、
これらは、「発達障害」と呼ばれる、個性的キャラクターの特徴であり、大勢の臆病者には実現できなかった、新しい発見・発明、新しい思考・システム・記録などをこの世に生み出す可能性があります・・・。
それを、なんと臆病者の群れが称賛している、、、という笑える時代。
これは、「発達障害の分別」が行われているということで、″商品価値〃のある発達障害は価値があるが、、、社会道徳を害するものは否定する、、、
幸い、発達障害という言葉が否定的な響きではなくなって来ているのはけっこうなことで、どんな個性にもやさしさと可能性を見つめようという機運もこの社会には存在しているので、、、
しかし、そのような個性的な存在でもない、「大多数の臆病者」は、いまや無防備な群衆になってしまって、とてもヤバい現状です。
おそらく、今、この日本で戦争が起こる、起こりそう、好戦的な政治家が出てきても、それに異を唱えて、反対の姿勢、行動をとれる人々は出てこないでしょう。
紛争や戦争が起こる原因は、当然そこに自己中心的な″大義〃が発生するためで、このいかさま同然の大義を否定するなど臆病者には出来ません。
実際、天下国家どころか、数人の人間関係の中の同調圧力にも勝てない人ばかりですから・・・
なので、発達障害か臆病癖のどちらかと訊かれた場合
あなたはどちらでしょうか?