びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

AIに負けない「教育」

 という書籍の新聞広告が目に留まりました。
 
 さっそくネットで検索。

 AI革命が進展すると、今まで人間がやっていた仕事などが人工知能によって可能になることで、失業問題なども発生し、そこでAIには出来ない、つまり人間の発想、創造性、感性等々に教育の力点が置かれていく必然性が発生します。
 つまりこれまでの教育は暗記中心の知識量の優劣を競わせるような教育であったので、知識(情報)を溜め込んで瞬時に仕事をこなせるAI進化の時代には、そのような教育は無用になってしまい、それに固執しているような日本の学校教育は崩壊する。皮肉なことに、AIが不得意な分野は、実は今の学校教育も不得意という現実であるということです。
 
 故にAI革命は同時に教育革命を起こす可能性があるといわれる訳です。今まで追究されてこなかった人間本来の可能性を育てる教育の夜明け。今までのような詰め込み教育しか出来ない教員は役立たずとなります・・・。

 さて、ここまでは、肯定的に書いてみました。
 
 しかし、ふと20年前のことを思い出します。
 
 当時、校内LANなどなかった学校にパソコンが普及しはじめて、㈱メルコ(現㈱バッファロー)が小型無線LAN装置を廉価で提供しはじめ、自分の勤務校でも有線、無線混在の校内ネットワークシステムを自分たちでつくりました。あまり関心のない教職員に対して「情報共有」によって効率的に仕事が処理できるようになると宣伝しながら、校内サーバーにデータベース的なものを構築して行きました。
 
 この「情報共有」という言葉、今では一般的に使われているのですが、当時は使われていませんでした。その後インターネットなど情報ネットワークの驚異的発達で、世界中の情報を世界中の人々が「共有」できるようになってしまい、さらにはここに来て、SNSという形でプライベートな、ローカルな、グローバルな「情報共有」空間が展開し、この電子的世界そのものが世界になってしまいました。
 
 私の20年前は学校の中の世界でしたが、それが教育を変えるかも知れないと大きな可能性を感じ、嬉々として走り回っていたのです。
 
 それが、今や、そこが犯罪者も横行する空間になってしまったことなど、当時はそこまでは想像出来ませんでした。
 
 コンピューターと人間の関係は、既に半世紀も前に映画「2001年宇宙の旅」などで、コンピューターが必ずしも人間に忠実でないことを示唆していましたが、50年後の今日、それがバラ色ではなく、間違えば人類に危機をもたらす可能性もあるということが認識されはじめているといっても良いでしょう。
 
 即ち、AIに負けない「教育」とは、狭義の意味での教育でないことは明らかで、それを狭義に捉えてしまうと、それこそ取り返しのつかないことになってしまうと考えています・・・。