びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

“行政内オンブズマン”

 
 
 こんな言葉はありません。
 
 想像してみてください。
 
 
 普通、行政に対する苦情や要請は、外部からあるもの。
 
 これだから「公務員は・・・」と全部まとめて世間の側から批判を受けてしまいます。
 
 給与削減などの圧力が掛かれば、一律総賃金削減となります。

  みんなで下げれば怖くない
 
 ・・・公務員社会は平等・・・??

 
 
 だいたい、‘公務員の出世’というのは、営業実績とか実務能力とかの生きた能力ではなくて、‘試験力’と‘コネのチカラ’、あとは‘ごますり力’です。その試験も、指折り何回も落ちてやっと、、という人もいるわけです。
 
 何を根拠にと、おっしゃる人も多いかと思いますが、少なくとも課長クラスまでなら、そんな感じでしょう。
 
 県立高校の校長は、その課長クラスなわけですが、正直、この10年以上、能力という言葉から縁遠い、良い意味でも悪い意味でも「無能」な管理職がはびこってます。
 
 
 タイプは3つ。
 
 お人好しで、ヒラからは警戒されず、学校のあちこちで姿を身かける。でも何も実現しないタイプ。でも、ヒラから見れば、まだ良い意味での無能です。変わらないことが最良の道と考えているのです。
 
 
 一見有能っぽく振る舞う。着任して直ぐに口出ししはじめる。つまり、最初から教科書丸暗記的に知識で押し出す。故に応用問題は全然できない。情緒的な事件が頻発する学校現場では、ヒラがせっかく落ち着かせた問題をしばしば振り出しに戻す。
 教科書に問題があるのだと思います。
 
 
 3つ目。
 
 実は、これが一番困る。さらに、やっかいです。
 
 校長という存在は、ヒラにとって唯一行政との窓口になる立場。行政が神なら、校長は司祭みたいなものです。
 
 世に神あらば、司祭は何故その地位に選ばれしか・・・。
 
 神が民にとって善であるならば、司祭は何を為すべきか・・・。
 
 最大の無能さ、それは神に声が届かない。むしろ、声を隠蔽し、圧殺し、曲解し、祈りを黙殺し、善行を無視し、そして欺瞞に吸い寄せられる。
 
 これらのことが確信によって行われているのならば、それは有能かも知れません。そういう人物は昇進が早いものです。
 
 
 しかし大概の場合、それは無自覚に行われているのです。故に、“労働機能”によって成り立つ現場では、まったく不用な存在なのです。
  
 行政がすべき事、現場から行政に告白すべきこと、そのすべてが“その部分”がボトルネックとなって機能不全を起こしているのです。
 
 なぜそうなってしまったのか。
 
 簡単に言えば、自分の意志を持たない、調整能力の欠如した校長を量産した結果なのです。
 
 故にもう現場は、司祭抜きに、直接神に接続しなければならないでしょう。信仰が強ければ強いほど、この感情は強くなります。
 
 哀れなのは、そのような司祭に与し、結果的に神から遠ざかってしまうヒラ信者たちです。
 
 
 恐らく、今の「行政人」に改革はできません。悲しいことですが。
  

 この接続を可能にする、新たなしくみ。期待の中にそれが見え隠れしたこの数年・・・。
 
  
 最近色褪せた「政治主導」という言葉。一体どこに行ってしまったのでしょう。