びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

菅直人

 昨年の原発事故後の対応で、首相としての仕事がどうだったか猛烈に批判されています。


 一方、浜岡を止めたということが象徴的となって、あまり書かれませんが、結構、彼を支持している人もいるのではないでしょうか。


 それにしても、原発再稼働をめぐって、一般人のこの空気の止まったような状況は何なのでしょうか。
 
 
 反対に、がれき処理問題で公務執行妨害で逮捕された人もいました。
 
 
 このことは現状を非常に分かりやすく説明してくれています。
 
 
 私自身がそうですが、自分の身近な問題になれば動き出せる。でも、国家全体としての問題のようなことになると、何をして良いのか分からなくなる。
 
 
 結果として、市民運動とか労働組合関係などで積極的に動く人だけがゴソゴソ何かをやっているような・・・。
 
 
 そういう人々は「特別な人たち」ということで、一般の人々は外化してしまいます。


 この国は、“下”からは運動は起きない国。と結論づけて良いでしょう。
 
 
 それだけに、国家のリーダー次第ということになります。
 
 
 そう結論付けた時、昨年から今年にかけて批判に晒されている政治家達は、これはリーダーの体では無いわけです。本当のリーダーであれば、その行動は過去にも現在にも、そして未来への期待に対して、支持されているはずですから。
 
 
 では、一体、この国のリーダーは、誰なら良いのでしょうか?
 
 
 選ばれるべき彼らの中で延々と足の引っ張り合いが続き、報道もその手段と化し、展望を示されない国民は選択肢を失ってしまっている。
 
 
 「何かを期待している」のは、国民の幻想であろうと結論付けて良いでしょう。
 
 
 政権が交代して子ども手当支給や高速道路料金減額があっても、原子力発電所が破壊されて放射能が頭の上から降ってきても、結局、“相対的”方向性すら示せる存在が皆無なのですから。
 
 
 民主主義のプログラムは“定数”を否定して、無数の変数によって構成される可能性に満ちた時代空間をつくりました。
 
 
 しかし、21世紀現状の混乱や終息しない非人道的な出来事の連続を見る限り、このプログラム自体が決定的な間違いを持っているのではと思ってしまいます。
 
 
 実は、大勢の“リーダー像”の中に、そんなことを思わせる人物がいなくはないということを感じるのは私だけでしょうか・・・。