びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

文明病

 
 
 よく使われる言葉です。
 
 
 つまり、何か説明しにくい社会現象があると、大体この言葉が飲み込んでくれます。
 
 
 精神病
 
 
 この言葉もそのような使われ方をしてきました。
 
 
 最近は統合失調症
 
 
 大抵の人が、該当する何らかの症状を持っています。
 
 
 境界型という言葉も、もう古いのかも。
 
 
 車でいうとCVTのようなものに変化。
 
 
 この滑らかな混濁社会では、境目無く、人はちょっとしたことで、どこで自分を見失ってしまうか分からないようなことにもなりかねません。
  
 
 気が付くと、とんでもない立ち位置にいたりして、自分の力ではどうしようもない場面の中で呆然とすることも。
 
 
 文明は人の社会生活の一コマひとこまを快適にしてきました。歴史の最初、その一コマは大きく明瞭であった訳です。こちらと隣が明確に区別でき、一日一日も、季節の移ろいも、すべてに感覚的刺激がありました。
 
 
 しかし、文明はマクロからミクロに変換し、科学が一コマを何万分の一というように、細かくしてしまったので、境目も見えなくなってしまいました。
 
 
 これは物質の話だけではなくて、人間の精神世界も光と陰のような空間的情緒の世界から、微視的なデジタル記号の配列によって描かれる無機的な感覚世界に引きずり込まれました。
 
 
 もともと物質的肉体を持つ人間ですから、生理学的に自然界の連鎖の中で、その微妙なバランス作用によって生かされてきた訳です。
 
 
 本来、精神性もその自然とのたたかい、調和、妥協、服従という関わりの中で育まれ、人間どうしの関係も共通の脅威である自然との対峙によって連帯性も構築されたといえます。歴史の各場面で、様々な具象化された精神の輝きが誕生しました。
 
 
 しかし、このマクロ的な自然と弱い人間の関係が、科学によって長い年月の末ミクロ的認識に変化し、自然の“ミクロの弱点”のわずかな部分を取り出せた瞬間、人間どうしは連帯性を必要としなくなったのです。
 
 
 こうして、本来、マクロ的自然の前で連帯していた人間が、ミクロの役割に従事することで連帯を失い、人間精神も個の中に抽象化されて閉塞されるようになりました。
 
 
 このことで、他人にはまったく理解されない精神性が氾濫しはじめ、その精神性の社会的許容度の違いで、褒められもし、差別の対象にもなってしまうようにもなりました。そして20世紀は、その分別作業のために様々な産業を生み出しました・・・。
 
 
 
 自然界の巧妙なプログラムは、あらゆる要素が無関係のようで実はすべてが関係性の中にあるようにつくられていることは、普通に考えれば明らかです。太古の人類は、それを直感的に理解していたからこそ文明の第一歩を記したのですから。
 
 
 生まれ出る個々の人間も、その何らかの関係性の中にセットされることで生息の意味を与えられているのだと思います。精神性もその関係性の中で平衡を保つように組み込まれたものでしょう。
 
 
 そのように自然を定義すると、マクロの自然からミクロの認識によって解放されたかに見える、現在の人間のあらゆる精神性も、実はそのプログラムの内にあって、個の内に閉じこもり分裂したと思っていた連帯性も、ズームアウトすれば、まだこの自然の連関の内にあると導けます。
 
 
 この視点こそが、今の人類が失っているものであります。世界情勢の話ではありません。この国の話でもあり、勤める職場でもあり、暮らす地域であり、そして自分の周囲の話です・・・。
 
 
 
 あれっ、ここまで読んでこられた人いますか?


 私も分別されてしまいそうなので、やめます。