びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

思考停止

 
 
 もともと浅い蓄積しかないので、すぐに枯渇します。
 
 
 ただ、浅くても、その分を常に補給すれば良いのですが、その補給が出来なくなってしまっている現在・・・。
 
 
 
 思えば2009年秋、政権交代実現。
 
 
 新政権の300議席越えは大きな期待の現れであり、当初は具体的なものもポンポン出てきました。
 
 
 高速道路・高校授業料無料化、子ども手当事業仕分け、温暖化25%削減目標、沖縄基地県外移設、東アジア共同体・・・、そういう目立つもの以外でも国会の各委員会では国民目線の政策が議論されるようになって、明るい気分になれたものでした。
 
 
 ところが、アメリカに嫌われたらおしまいです。
 
 
 「友愛」のフレーズが詐欺師呼ばわりされ、直後、いきなり参院選直前に消費税率アップの話・・・。これって、どういうことだ、と目と耳をうたがい・・・。
 
 
 あっという間にねじれ国会に転落。
 
 
 わずか一年。
 
 
 決まるものも決まらなくなりました。
 
 
 しかし国民も辛抱がなかったなぁ。参院選敗北は、一気にブレーキになりました。まったく、時の首相に思慮が無かったということなのでしょう。
 
 
 そして、3・11・・・。
 
 
 日本、いや世界的に見ても最も深刻な原子力発電所の事故を起こしてしまい、事故への直接的対応は勿論、エネルギー政策の方向性に議論の余地のない決断が必要であるのに、政権基盤の揺らぎの中で、あいまいな態度に終始して、どっちにもいいポーズ的な舵取りになってしまいました。
 
 
 方や在野勢力も、得体の知れない維新の会や、先祖がえりの自民党がごちゃごちゃになりながら総選挙を要求中・・・。
 
 
 
 ところで、選挙というものは、選択できる要素があってはじめて実施できるものではないのでしょうか?
 
 
 現状下、一体どれを選べというのでしょうか。
 
 
 思考停止です。
 
 
 
 年明け頃からブログに適当なことばかり、皮肉っぽく書いてきて、正直段々いやになってしまいました。今の日本は子どもから老人まで、みんな評論家になってしまって、これも社会の成熟の証なのかも知れませんが、言動の多くが無責任のベース上にあります。
 
 
 私自身も、自分の発する言葉に責任を感じなくなってしまっていることに、ハッとしてしまい・・・。
 
 
 思考停止。
 
 
 
 教育労働者として、思考停止が許されるのかっ!と、気分は追い詰められます。
 
 
 しかし、考えてみると、何だかんだと生意気なことを数十年考え、言い続けてきたのだけれども、選挙でどれを選んで良いのか分からないようになってしまっていること自体に、結局自分には政治的主体性などないのだということに気づかされます。
 
 
 「人間は社会的いきもの」というのがありましたが、政治家であっても実は主体性がなく、そのなれの果ては恐怖、脅迫の中でしか行動指針が持てない存在になっている現実。国民に、つまり自分にとって“そのような選択肢”しかないことの貧困さ。
 
 
 主体性のない権力に主体性のない国民。
 
 
 どうしてやってこれたの?
 
 
 
 「日本人総職人論」に立てば、職能的責任意識がかろうじて残っていたので、何とか社会は成り立ってきました。
 
 
 しかし、思考停止・・・、そのわけは
 
 
 「日本人総職人論」が社会のあちこちで否定的に扱われるようになって、久しくなってきました。
 
 
 指令系が腐っていても、個々の能力が機能してアメーバのごとく連結して、国家の生命体を維持してこられたこの国の最大の特質が、短絡的な「統合論」によってズタズタにされ、すべての仕事が入口と出口が予め想定されるように設計され、分岐的発想は否定されて、そのような発想は孤立に追い込まれて絶滅に向かってます。
 
 
 正しくは、豊かさが個の生活に自由な発想をもたらしたので、その欲求を稼ぎの中で働かせる必要がなくなったともいえましょう。
 
 
「自分だけの世界のエキスパート論」へと時代が変わりました。

 
 
 最近、山登りに出かけると、女性の単独行者に出会うようになりました。昔はまず見かけませんでした。
 
 
 思考停止している自分は、彼女たちの政治的関心を尋ねたいと思ってしまうのです・・・。