びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

kdsystem的世界、今後

 
 8月に一応の完成版を公開してから、この仕事は暇になりました。
 
 
 問い合わせ等あれば、いつでも応じられるようにスタンバイはしています。完成しているプログラムが意味あるものかどうかは、まだ何とも分かりませんから。
 
 
 
 そんなことで、今朝、トイレに入っていて、ふと考えました。というか、感じました。
 
 
 労働をして賃金を貰えれば、食べたいものを何でもスーパーで購入出来て、生活のあらゆる便利さも充実しています。
 
 
 日本中を旅して回っていても、行く先々殆ど不便がなく、著名な観光地は勿論、人知れないような山間に入って行っても、自分の車が道路の不備で目的地に行き着けないということもありません。
 
 
 昨年の大震災や、毎年のように起きる水害の現場などに行っても、そこ、ここで眼にすることは、すでにニュース等で知っていて、少なからず、会ったこともない人とも情報は共有されています。
 
 
 乏しいスキルでパソコンソフトを作って来た、その感覚から思うことは、この今日の日本社会の、実に見事な“社会プログラム”は、一体誰が書いたのだろうか、ということです。
 
 
 単純な回答を求めれば、多くの国民がそれぞれのポジションで一所懸命に働いている結果でしょう・・・、と来そうです。
 
 
 日本人はまじめだから。
 
 
 
 ところで、選挙が近いということで、いろいろ動きがあります。アメリカのマスコミが、「日本の右傾化」を紹介しています。その具体的対象となる人々は、一様に憲法改正を口にしています。特に、憲法に完璧なロックを掛けたような第96条の改正条項を真っ先に変えようという声もあります。
 
 
 私は変える必要はないだろうと感じています。
 
 
 この憲法は、戦勝国アメリカが、その悲劇的戦争の余塵くすぶる中で、キリスト教的倫理観をベースに書いたもので、当のアメリカ自身が到底持つことの出来ない理想憲法であったわけです。
 
 
 自分たちが実現できない理想を、敗戦国日本で試してみる。それほどに敗戦後の日本人の素直な有り様に「もしや」と感じたのでしょう。
 
 
 実際アメリカはその後、同じような成功体験は何処の国と戦争しても出来ませんでしたから。

 
 人類の歴史は、進歩と荒廃の両側面があり、進歩は物質的に人々を幸福にし、一方荒廃は人々に倫理感と希望を授けてきました。
 
 
 日本国憲法は、正にその荒廃の中の希望であり、来るべき次の社会の倫理であった訳です。
 
 
 憲法前文には「普遍」という言葉が2回使われています。最初は、国民主権に基づく権力行使の目的が国民の福利にあることとして。
 後半では、国家間の問題は“協調の政治道徳”に委ねられるべきことは法則である、ということに。
 
 
 そして、締めくくりに、この崇高な理想の達成は、国民の名誉であると・・・。
 
 
 自覚のあるなしにかかわらず、戦後私たち日本人は、この憲法の理念の下で教育されて社会の構成員となり、進歩という面では世界中にMede in Japanの福利をもたらし、個別的に起こる荒廃に対しては、時間を掛けながらも誠実に対応して生きてきました。
 
 
 そうして、今、実に見事な“社会プログラム”が現出しています。遡れば、この成功のプログラムは「日本国憲法」が開発理念であったことが分かります。
 
 
 普遍律法は何にでも当てはまります。
 
 
 日中間で問題になっている尖閣列島は、今は日本が領有しておくべきです。日本は決してこちらから武力戦争を起こしません。しかし中国は分かりません。であれば、安全な憲法を持つ側に任せておくことが利でしょう。ましてや、中国はかつての日本の侵略行為を批判し続けています。であるならば、自分たちがその同じ行為を犯せないでしょう。
 
 
 日本国憲法の普遍性が最大の防御であるのはこのことなのです。
 
 
 この憲法が「世界憲法」足りうることを説明する人が少ないのが残念です。
 
 
 さらに残念なのは、“国益”と叫んで、日本国憲法の普遍性に気づかず、利益誘導によって憲法改正をしようとする政治家が権力に近づいていることです。
 
 
 そして、アメリカ。平和憲法の代償としてオキナワが存在していることを一番知っているのはアメリカです。日本国民の沖縄への無関心さは、平和憲法への無関心さと同義語です。
 
 
 さらに、進歩と荒廃の答えがフクシマであることも・・・。
 
 
 
 さて、小さな理想からはじまったkdsystem的世界。これで終わりということで良いのか、今、迷っています。