びーすけ工房でひとやすみ

思うことをびーすけ工房からお送りします。

次の時代の風景


総選挙前日です。


難しい選挙だなぁ、という実感があります。


ただ、選挙後の時代に、思うことはあります。


全体主義”だけは勘弁だなぁ、ということ。



 難しい話は置いとくとして、みなさんは自分の身近の人間関係をどう観ているのでしょうか。


 ネット上などでは、書きたい放題の状況がありますが、リアルな空間で、人と人が面と向かって激しく議論する、などという情景は、嫌がられていませんか。
 
 
 少なくとも学校などはそうなっています・・・。
 
 
 民主主義社会では、学校は、様々な考え方や、さらには多様な人間性が剥きだしになって議論する場であるべきところだと思いますが・・・。
 
 
 恐らく、社会全体もそうでしょう。
 
 
 効率重視の時代の価値観が、個々のワガママを排除して、最も効率的方法論で社会をコントロールする。コントロールする側にいる者達が勝ち組で、される側が負け組。
 
 
 もともと、使う側と使われる側、資本主義の原理と同じで、資本主義の場合は、かつて“労働者の団結”という力学で、分配社会の公平性を希求しましたが、労働運動が滅亡した現在では、労働者以前の状態の、“非正規という奴隷”社会に戻ってしまいました。
 
 
 3年前の政権交代は、その現実に対する不満であったことは間違いありません。
 
 
 そして3年数ヶ月。まったくなにも改善がなかったとは思いませんが、私たちは実感を持ち得ないようにされています。


 そのような意識の中で次の選択を迫られています。
 
 
 恐らくは、どのような政権が誕生しても、この社会構造や国際情勢に起因している現在の不満を解消する、“魔法のような方法”はなかなか無いでしょう。
 
 
 それでも、国民、国家をコントロールしなければならない指導者達は、何かしなければならない・・・。
 
 
 実に恐ろしいことです。
 
 
 人は、風邪をひいたとき、自力で治す人もいれば、薬局で薬を買うか、慎重な人は医者に行って診察してもらったりします。
 つまり、この程度の段階であれば、個々人の判断の裁量があり、それぞれが自分勝手なことをいってられます。
 
 
 しかし、生命に関わる事態に直面したらどうでしょう。


「座して死を待つ・・・」 


 そんな風に悟れる個人はほんの一握りです。
 
 
 ところが、そして、それが全体になると、
 

「みんなで渡れば怖くない」


 に変質します。
 
 
 この時、その「みんなで渡る先導役」が政治家の立場になります。
 
 
 一番困ることは、その先導役自身が自分の命を惜しむということです。己の保身のために国民を盾にしてしまいます。
 
 
 行き着くところ、国民の生命が奪われるようなことになれば、結局は自分の命も奪われるのですが・・・。
 
 
 今、私たちはその「先導役」を誰にするかを選ぼうとしている訳であります。
 
 
 そして、空気として漂っているのは、国民一人ひとりの、個人の行動意志を尊重し、さらには、その個人の決断を迫るようなことは敬遠され、故に個人の判断、選択をせまるような先導役は、嫌われるということです。
 
 
 国民自身が民主主義を放棄する瞬間です!
 
 
 何も考えなくても、連れて行ってくれる、そんな先導役を求めているんだろうなぁ、と感じられます。